『ガッツだぜ!! 』は売れた。さらに、すぐ後に『バンザイ~好きでよかった~』(シングル、1996年2月7日)がリリースされるわけだが、以降、バンドの望むと望まざるとに関わらず、この2曲はウルフルズの代表曲として常に求められることになる。そしてこのメガヒットの呪縛に絡め取られ、もがく様こそがウルフルズの現実となり、歴史となっていくのだ。
一体、ヒットするということはどういうことなのだろう。デビューからここまでウルフルズと共に歩んできた池田日都美(現EMIミュージック・ジャパン東京第2営業所所長)はこう振り返る。
「ものすごい勢いであそこまで売れてしまったって感じなんですよね。ロックバンドとしては、何十万枚くらいのセールスのほうが自分達の理想とする良質な音楽を提供出来るのかもしれませんし……」
あんなことになるとは、と言いながら、しかし一方でその時のうれしさをつい昨日のことのように話してくれた。
「アルバム『バンザイ』(1996年1月24日リリース)が、オリコン初登場2位だったんですよ。それで、当時の東芝EMIの社長と会って、その後に取材があるからと言って別室に入れたんですよ。そこに営業スタッフから宣伝スタッフからみんないて『おめでとう~!』ってクラッカーならして手作りのパーティーをしました(笑)。メンバーは4人とも号泣してましたね。それにしても、ひとつのアーティストがブレイクして、こんなにも多くのスタッフが一緒に泣くなんていうのは、ウルフルズだけだと私は思います」

シングル『コマソンNo.1』リリース直前、紅白歌合戦出場決定のタイミングで登場。
一方、事務所社長の森本は興奮気味にその当時の様子を語ってくれた。
「それまで1万枚がやっとの世界でやってきたのに、『ガッツだぜ!! 』出したらいきなり3万8000 枚の注文が来た! ほんで年が明けてアルバム出したらドッカーン、や。会社の電話が鳴りっぱなしになってもうた。テレビ番組とか出してもうたり、どこ行ってもすごい扱いや。ほんでゴールデンウィーク前に(アルバムが)100万枚いったんかな。その時やね。その時にやっと実感湧いた。涙が出てきた。だってこれでアカンかったらもうほんまに大阪帰ろうと思ってたから」
カンテでのバイト時代からの仲間、高須光聖はウルフルズのブレイクをこう説明してくれた。
「ちょうど大阪的なもんが注目を集めだした時やったんですよ。それはダウンタウンの影響がやっぱり大きかったと思います。『ごっつええ感じ』の視聴率もすごく良い時期でした。そんな中で『ガッツだぜ!! 』『バンザイ』が出てきて、ウルフルズの濃いキャラクターも認知されていきましたよね。それで、ウルフルズが『HEY!~』のミュージック・チャンプに出るってなって、僕普段は『HEY!~』の収録には行かないんですけど、その時はさすがに行きましたね(笑)。ダウンタウンとウルフルズが同じ舞台に立ってるっていうのはちょっと、なんでしょう……不思議やなーっていうのと感動っていうのが混じった変な感じでした」
また、ウルフルズのキャラクターをもっとも効果的にブレなく伝えたのがプロモーション・ビデオだった。デビュー作『やぶれかぶれ』からずっとウルフルズのPVを撮り続けている竹内鉄郎は『ガッツだぜ!! 』の制作段階をふり返ってくれた。
「小室哲哉さんのサウンドとかZARDとか、邦楽全般がアカ抜けてきていた頃だったので、逆にドメスティックなものが受けるだろうと思ってました。だから、ちょんまげ(笑)。それに1回死んで生き返るっていう大阪的しつこさをどんどん入れていきました。スペースシャワーTVが開局して1年後という絶好のタイミングで、あのPVが世に出たのは本当に奇跡かもしれません」
さて、当の本人たちは、この1995年暮れから1996年の1年間を口を揃えて「何をしてたか覚えてない」と話す。当時のスケジュール帳を見てみも真っ黒だ。雑誌の取材やら撮影、テレビ出演にラジオ出演……ありとあらゆる場所に出続けた1年だということがわかる。そして待ち受けているのは、追い求めて得た結果に苦しめられるというジレンマ……成功物語には無くてはならないこのお馴染みのストーリーは、ウルフルズにも例外なくきちんと用意されていた。
「自分のことを保つのが精一杯。俺は本当に音楽をやりたかったんか? こんな気分でも音楽をやらなアカンのか? どんどん見失っていく感じ。それで、これは俺の性格なんやけど、売れてるっていうことに対して浮かれられへんのが一番悲しかった」
ヒット曲を作りたい、その思いだけで辿り着いたヒットという結果の衝撃はあまりにも大きすぎた。気がつけば、思い描いていた“理想”を遥かに超えた地点に立っていた。根拠の無い自信から始まったウルフルズの活動は、無自覚に根拠の無い不安に襲われることとなった。


ちなみに歌詞に出てくるコンビニにはモデルがある。
アルバムが100万枚に届こうかという春の昼下がり、築ン十年のオンボロのハイツから移り住んだばかりの100㎡のマンションの片隅で、トータスはある光景を思い浮かべていた。ウルフルズを結成するもっと前、まだ田舎の高校生だった頃、大阪の厚生年金会館にRCサクセションのライブを観に行った。何もかもがキラキラしたその場の出来事に心を奪われた。そして、俺もあそこ(ステージ)に立つ人間になるのだと誓った。
「俺はあの人(忌野清志郎)になろうって。……それが原風景やから、それ以上のことはわからへん。2000人とか3000人とか、それくらいの人がワーッて言うてる、俺が歌ってる……そのくらい。俺の達成したかった目標って。それをはるかに超えてしもた、一気に」
ヒット曲、という目標の意味は、『ガッツだぜ!!』『バンザイ』みたいな曲、にすり替わっていった。それは自分達のやりたい音楽では決してなかった。もっと正確に言うなら、それだけが自分達のやりたい音楽ではなかった。特に『ガッツだぜ!!』は、トータスにとっては元々が“おまけ”だったのだ。それが、まわりにあおられてあれよあれよという間に曲になった。本人に聞いても「俺にとっては一生おまけ。いまだに歌ってて1回も酔いしれたことがないねん」と、断言する。それはあるいは、彼を苦しめる原因となった曲への復讐心がそう言わせているだけなのかもしれないが……。
ヒットするということ、それは改めて音楽をやる意味を問われるということだ。単純にヒットしたい、お金を稼ぎたいという即物的な思いで一生を全うできるほど音楽は生ぬるいものではないのだ。なぜなら音楽を始めとする表現に答えという簡単な出口はないのだから。一度入ったら答えの出ないまま答えを追い求めて一生過ごさなくてはならない。その覚悟があるのか? ウルフルズのCDを買った100万人が連呼する。耳を塞いでも、目を閉じても、その声が止むことは無い。
「おまえはなぜ音楽をやるのだ?」ーーあるはずの無い答えを見つけてとにかく安心したかった。そうやって1996年は、悩みと忙しさの渦の中で終わっていった。
明けて1997年2月26日、シングル『それが答えだ! 』をリリースする。そこには、答えなんて無い、という悟りが、『ガッツだぜ!! 』を思わせるダンス・ビートの上で弾けていた。世間に求められることと、自分達の理想とのバランス。ヒットを経験したからこそ持つことの出来るオールで、やっと『ガッツだぜ!! 』『バンザイ』以降の海を漕ぎ出した、ように思えた。
(2007年9月13日号掲載)
