2007年3月6日。ウルフルズの4人は仙台にある老舗ライブハウス・JUNK BOXのステージに立っていた。オーディエンスは十数名。バンドの人気やキャリアから考えれば目を疑いたくなるような光景だ。実はこの日、ファンクラブ・イベントに先立って特別イベントが行われており、会場には10年間ファンクラブに所属しているファンだけが集まっていた。ステージからトータス松本が少し照れくさそうに語りかける。
「バンド組んだ頃のこと思い出すわぁ」
少し間があり、ワウペダルを踏んだギターのカッティングが鳴った。瞬間歓声が上がる。少し照れくさそうな『ガッツだぜ!!』が始まった。
●
1988年12月30日。大阪・十三。松本敦(トータス松本、'66年12月28日兵庫県生まれ)。岩本圭介(ウルフルケイスケ、'65年5月23日大阪府生まれ)。黒田利博(ジョン・B・チョッパー、'67年11月4日大阪府生まれ)。アルバイトで知り合った3人はライブハウス・Fandangoのステージに立っていた。初めてセッションをしてから1年以上経っての実質的な初ライブだった。だからと言って、このライブで何かが変わるとはメンバーの誰も思っていなかったし、実際特別なことは何も起こらなかった。ただひとつあるとすれば、最前列で誰よりも暴れていた観客が、当時高校3年生の佐子博幸(サンコンJr.、'70年9月13日大阪府生まれ)だったということだ。
そもそも松本には、バンドでボーカルをやっていることすら最初は受け入れ難い事実だった。中学2年生でギターを買ってもらって以来、高校でコピーバンドを組んだ時も、自分は常にギタリストだった。さらに言うなら、オリジナル曲をやっていることさえも不思議だった。
「実はものすごい保守的な人間やったんやね、俺は。だからコピーバンドしかやりたくなかった。ブルースのコピーバンドを誰よりもカッコ良くやれる自信だけはあって、それでメジャーデビュー出来るって考えてた」(トータス松本、以下トータス)
それもこれも、大阪のカンテというインド風喫茶店でアルバイトを始め、そこで知り合った仲間たちがすべての始まりだった。
ウルフルズのメンバーの中で最初にカンテに入ったのは、岩本だった。当時カンテは、新規店として梅田マルビル店オープンの準備をしていた。'86年8月のことだ。岩本はこの新しいマルビル店のスタッフとして働き始めた。アルバイトの仲間には、アメリカ村店から移ってきた高須光聖(放送作家。ダウンタウンのブレーンとしても知られる)がいた。
「カンテっていうのはおもろいとこでね。大阪では異質な喫茶店なんですよ。そもそもそこで働いてる奴らがおかしな奴ばっかりでしたね。ノイローゼ気味の見るからにファッション・センスがおかしいバンドマン、パントマイムやってる奴、何やってるかよう分からん奴。とにかくその中では僕が異質やったんちゃうかな」(高須光聖、以下高須)
その頃岩本はDf'(ディー・エフ)というバンドでギターを弾いていた。インディーズながらアルバムをリリースしており、新宿LOFTなど東京のライブハウスでワンマン・ライブが出来るほどの実力派だった。
「歌は全部英語詞で、音はネオ・サイケとかそんな感じ。ジーザス&メリー・チェインの前座やったり、ツアーやったり。当時音楽誌がすごくプッシュしてくれた」(ウルフルケイスケ、以下ケイスケ)
しかし岩本は、Df'での活動にどこか息苦しいものを感じ始めていた。そんな時に高須がこんなことを吹聴していた。
「中津店にどエライのが入ったらしいぞ」
松本である。
「エスニック柄のベスト着て、髪はポニーテール。シャツは60年代のもん着て、下はパンタロンかベルボトム。それが『バイト募集してますか?』っていきなり入ってきた。今バイト足りてるよって言ったら、『えー!』って言ったんですよ、松本君。普通ね、ないって言われたら帰るでしょ? 帰らなくて(笑)」(カンテ中津店・神原博之、以下神原)
'87年4月、トータス松本はカンテ中津店でアルバイトを始めることとなった。カンテの空気にはすぐに馴染めたし、世間的に見て変な人達が集まるここは、自分の居場所のような気がした。と同時に、服飾の専門学校での2年間にバンドを結成することが出来なかった松本にとって、カンテは自分の不甲斐無さを痛感する場所でもあった。

トータス松本は、ウルフルズ結成以前よりトータス松本の名前で記事を書いていた
「バイトの控え室にギターケースが常に3つくらいあって。ライブハウスでやってる主要メンバーがおるわけですよ。俺、出遅れてるわーってめっちゃ思った。特にケイヤン(※岩本のこと)なんて雲の上の存在やったからね、当時は」(トータス)
カンテは各店舗のスタッフの交流が密にあり、特に高須がいた当時は営業時間が終わると彼のもとに毎日7~8名のスタッフが集まってはバカ話を繰り広げていた。そこで岩本と松本が出会い、一度セッションしてみようということになった。岩本の弟分的存在のツノモリという男がドラム、そしてベースは、当てがなかった。ある日、マルビル店の厨房で岩本はひとりの男に声を掛けた。ジョン・B・チョッパーである。
「ケイスケさんがうちの兄貴のことを知っていて、『兄貴がベースやってるからやってみる? 家にベースあるやろ?』って言われて。『あ、じゃ、やります』って」(ジョン・B・チョッパー、以下ジョンB)
しかし黒田は、ベースをほとんど弾いたことがなかった。そのことを岩本は十分に知っていたはずだ。
「その頃の僕は、どういう音楽をやるかっていうよりも、どんな奴とやるかということが大きな問題やった。よく冗談で黒田を誘ったのはたまたま厨房にいたからやって言うんですけど、まぁ偶然いてたのはいてたんですよ(笑)、でも黒田のことをおもろいと思ってた。高須君にいじられてる時の返しのセンスとかもね、すごくおもろかった」(ケイスケ)

どちらからも集まりやすいという理由で
このスタジオが初セッションの場に選ばれた
'87年の秋頃、バイトが終わってから岩本、松本、黒田、そしてツノモリで扇町にあるスタジオ246に集まった。こうしてウルフルズは、大阪風に言うなら、ぼちぼちと始まった。すべてはカンテからだった。
「でもね、僕は突然変異やと思ってます。だって35年のカンテの歴史の中で、バンドやってる子なんてたくさんおったけど、メジャーになったのは、ウルフルズだけですから。たぶん松本君が通るべき花道にたまたまあったのがカンテで、違うところへ行ってたとしてもウルフルズは出来てたと思う」(神原)
ウルフルズの辿る、笑いと涙と汗、その他もろもろにまみれた「芸の花道」。まだ始まったばかりである。
(2007年5月17日号掲載)

