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   <title>@ぴあ／ウルフルズ連載ブログ『芸の花道』</title>
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   <title>一緒に帰りたかったんや。</title>
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   <published>2008-02-20T08:28:35Z</published>
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   <summary>2007年12月2日。ウルフルズは久しぶりに大阪・十三ファンダンゴのステージに立...</summary>
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      <![CDATA[2007年12月2日。ウルフルズは久しぶりに大阪・十三ファンダンゴのステージに立っていた。観客は約200人。異様な熱気、ではあった。しかしそれは、俗に言う“ライブハウス特有の”といった形容詞で表現されるものではなく、どちらかと言うと、目の前で演奏しているのは本当にウルフルズなんだろうか？という驚きにも似たものだった。
ライブ終了後の打ち上げで、トータスはこう漏らした。
「(会場が)もっとエグいことになるんちゃうかなと思ったんやけどね」
さらに、打ち上げの挨拶では、このようなことを言った。
「ファンダンゴは、ウルフルズにとって重要な通過点だった」と。

<img alt="%EF%BC%91%EF%BC%97%E5%9B%9E%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%EF%BC%91%EF%BC%97%E5%9B%9E%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg" width="250" height="188" />
<div id="caption">12月2日(日)、大阪・十三ファンダンゴでのプレミアム・ライブにて。
1997年の飛び入り参加以来のステージだった。ライブなかばには、
１stアルバム収録の『レコードまわすよ』の演奏も</div>

初めてファンダンゴのステージに立った1988年12月30日から丸々19年、ウルフルズは一度も立ち止まらずに前進してきた。駆け足で、トボトボ歩いて、匍匐前進で。ファンダンゴのステージには、そんな彼らの歴史のはじまりがまずあった。そして、ウルフルズが今も前に進み続けているという現在との距離があった。だからこそ、そこからまた何かが始まるという未来への予感があった。大阪・十三ファンダンゴ、ウルフルズにとって永遠に刻まれるはじめの一歩。でもそれは、はじめの一歩であるにすぎない。ライブ本編の最後の曲は、『ガッツだぜ!!』だった。いつもより少し、テンポが速かった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　●

この連載では、メンバーをはじめ、じつに多くの関係者の方々に取材を行うことが出来た。中には、何時間も話を訊いたにも関わらず、一度も登場しなかった人もいる。あるいは逆に、30分程度の取材で、そのコメントを引用させてもらった人もいる。どちらも、この連載にとっては貴重で、必要不可欠な取材だったという点で同じである。その中で、ずっと引っかかり続けているコメントがある。第1回目に登場した、カンテ中津店の神原博之のものだ。
「たぶん松本君が通るべき花道にたまたまあったのがカンテで、違うところへ行ってたとしてもウルフルズは出来てたと思う」
掲載した時は、その意味をあまり深く考えなかった。しかし、どこか本質を突いてるような、ただそんなような気がして、また、“花道”という言葉のインパクトが強く、第1回目をシメるコメントとして掲載した。そして、連載のタイトルにも、その強力な余韻は反映された。いかようにも取りようはある。ウルフルズは、つまるところトータス松本であり、彼がどの道を歩んだとしても、ウルフルズはあった、という解釈。あるいは、ウルフルズ結成の時に語られる『カンテ神話』のようなものへの否定、ないし謙遜。またあるいは、メンバー4人の運命的で必然的な結びつきを示すための言葉、とも。今、ウルフルズの道のりを辿ってきて思うことは、カンテが『通過点』のひとつであったということだ。ファンダンゴと同じように。カンテでなくとも良かった、わけはない。トータス松本だけでウルフルズが出来たわけは絶対ない。
「俺は、背負われへん。ウルフルズ。それはね、俺が作ったもんじゃないから。ケーヤンが作ったもんであり、サンコンが作ったもんであり、黒田が作ったもんや。ウルフルズっていうもんの考え方、あり方、なにもかも全部。俺は、一人でウルフルズを背負えない。絶対に無理。断言できる。無理やって思うんじゃなくて、無理」
たくさんの通過点の積み重ねでウルフルズがあるのだ。カンテも、ファンダンゴも、泣かず飛ばずの何年間も、ブレイクも、ジョンＢ脱退も復帰も、東芝ＥＭＩも……そして、これから先も。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　●

12月2日の十三ファンダンゴを前に、メンバー4人は久しぶりに一緒に食事をした。4人だけだと、遠慮の無いむき出しの言葉が飛び交い、時に思いもかけない話題に火がつき、爆発してしまう、ということがある。この時がそうだった。その場の雰囲気は、相当悪いものになり、誰が言うともなく、店を出ることになった。
それぞれ、やり切れない気持ちを抱えながら、三々五々帰路に向かう中、ケイスケがトータスに声を掛けた。
「松本君、途中まで乗っけていくわ」
二人は同じタクシーに乗った。車内で会話らしい会話は無かった。トータスは、途中で車を降り、ケイスケを乗せて走り去っていくタクシーのテールランプを見送った。
翌日、なぜケイスケが帰り際にわざわざ声を掛けたのか、トータスは気になった。酔っ払って記憶は定かではなかったが、もしかしたら、ケイスケに対して何かきついことを言ったのかもしれない、と思った。
トータスは、ケイスケに電話をかけた。
「ケーヤン、昨日なんか言いたいことあったんか？」
「話したいことは、別に無かったんやけどな。……一緒に帰りたかったんや」

(おわり)

(2007年12月20日号掲載)]]>
      <![CDATA[<img alt="KEEPONMOVEON.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/KEEPONMOVEON.jpg" width="50" height="49" />
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   <title>あるべき姿</title>
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   <published>2008-01-25T10:58:00Z</published>
   <updated>2008-01-30T14:14:40Z</updated>
   
   <summary>さて。この連載も今回を含めて残すところあと2回となった。ストーリーとしては、まだ...</summary>
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      <![CDATA[さて。この連載も今回を含めて残すところあと2回となった。ストーリーとしては、まだジョン.B.チョッパーがバンドに復帰したところにすぎない。ここから、アルバムで言うと『ええねん』(2003年12月10日)、『９』(2005年2月23日)、『ＹＯＵ』(2006年3月8日)の3枚に沿って話は展開されていく。いや、じっくり展開されていくべきである。しかし、はじめから種を明かすようで恐縮だが、この1回でこれらの話を一気に進めようと思う。

というのも、そもそもこの連載のテーマとは何であるのか、ということを考えた場合、この3枚は同時に語られなければならない、と思うのだ。では、この連載のテーマとは何なのか。それは、正直に言うと、最初から明確にあったものではない。インディーズ時代の神話的とも言えるエピソードからメジャー・デビュー、ブレイク、さらにその後、とつながる軌跡を多くの人の証言から辿ることで、だんだんと見えてきたものだ。そしてこの段階では、はっきりとそれが見えている。
「バンドとは何なのか？」
言葉にすれば、なんと簡単で、抽象的なのだろう。例えばそれは、「あなたにとって、○○とは何ですか？」といった、インタビューにおいては禁句とも言える質問に近いものがある。しかし、そういった類の疑問や興味は、それが禁じられた言葉であるがゆえに、対象にのめり込んだ者たちを必ずそこに向かわせるという、ある意味本質的な性質を持っている。そうやって、この連載も、ウルフルズのヒストリーを追えば追うほど根源的な問いに行き着いてしまっ、というわけだ。バンドとは一体何なんだろう。もっと言うと、それはどういった関係や思いで成り立っているのだろう。ジョンB復帰後に再び4人となったウルフルズを追うことで、その答えとなるひとつのサンプルが抽出できるのではないかと思う。

前述の3枚のアルバム、『ええねん』『９』『ＹＯＵ』は、当然それぞれ時期的に違う背景を持ち、異なった成り立ち方をしている。特に『ええねん』は、4人に戻ったバンドの初期衝動をじつにわかりやすくパッケージ化した、と言ってもいい作品だ。実際、ジョンBの復帰は、2002年12月の5時間ライブを経て、翌年1月に正式に決まった。それから彼らがまずやったことは、4人一緒に「メシを食いに行く」ということだった。あたかも、バンドを結成したばかりの頃のように4人で音楽の話に明け暮れた。その話の延長に曲作りがあり、音源があるといった具合だった。それはバンドにとって幸せなひと時だった。ある者は、このままの勢いを持続させようと思ったに違いない。またある者は、さらに押し進めようと考えたに違いない。そしてーー。

トータス松本は、『ええねん』と同じことをやっていてはダメだと思った。彼はこう考えたと言う。
「衝動は絶対持続せえへん。結局、俺らを幸せにしてくれるものは、より良い楽曲しかない」
アルバム『９』は、「より良い曲」への飽くなき探求と、それにより獲得したバンドの深み、と同時に、曲を作る者とそれを演奏する者との精神的な不協和音が切実なメロディとなって顕在化した。レコーディング現場は、相当にシビアなものであったと誰もが証言する。

<img alt="%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%96%E5%9B%9E.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%96%E5%9B%9E.jpg" width="250" height="315" />
<div id="caption">東芝EMI在籍末期に撮影されたアーティスト写真。この前まで、わりとシリアスな表情の写真が続いていた中でのこの画は、まさに「ウルフルズ」を喚起するものだった。最初にこの4人がいて、そして今もある、という事実を語る1枚</div>

にもかかわらず、その次となる『ＹＯＵ』で、トータスはさらに自らの信念を貫き通すのだ。一度入った亀裂に指を突っ込んで広げるような、それは痛々しい行為に見えたかもしれない。彼自身こう述懐する。
「見ようによっては、自分の歌いたい歌だけ歌ってる、もはやソロ作みたいな感じかもしれん……」と。さらにこのときメンバーからは、このようなことを言われたと言う。
「松本君の言うてることはホンマにようわかる。早くここまで来いと言われてるのはようわかってる。でも、どないして行ったらええんかわからへんっ！」
それでもなお、曲を作る人間に妥協は受け入れ難い屈辱なのだろう。
「俺はやっぱり、最終的に人を幸せにしたり、自分らが幸せになれるのは、楽曲やと思ってるから」

だとしたら、はたしてそうまでしてバンドに固執する理由はどこにあるのだろうか？　という当たり前の疑問が誰の頭にも浮かぶだろう。そしてさらに、人を幸せにする「いい曲」を作ることと、バンドをやっていくこととは、もしかして必ずしもイコールではないのかもしれないとさえ思う。
「そうかもわからへんな。でも、こんなに目的がはっきりしてるのに、じゃあ何で俺がソロにならへんかって言うと、ウルフルズが好きやからとしか言いようがない。……どっちみち、自分の好きに書いた曲をメンバーに演奏させるっていう、もう言うたらエゴの極致みたいなことを俺はやってる。でもそれは、ウルフルズのメンバーが、俺の作る楽曲やその世界観が好きやからやってくれるんやろうと思う。それがある以上は、『松本君の曲もういいわ』って俺を捨てない限りは、俺はウルフルズで好きなことを最大限にやりたい」そしてこう付け加えた。
「そういう場所やと思ってんねん」
場所、という意味が最初はよくわからなかった。比喩的な表現であるということは別にしても、では一体それが指し示す具体的な何かは何であるのか。答えは意外なところにあった。それは、この連載を始めるにあたって、もうずいぶん前に終えていた取材テープの中に既にあった。4人の中で最後にメンバー入りした、サンコンJr.の発言だ。ケイスケをリーダーとして始まったこのバンドが、いかにトータス松本という才能を育んだのか。そしてその才能が開花したと感じたのはいつ頃か、という質問に対しての答えだ。ケイスケに訊くには、いささか不躾のような気がした。もちろんトータス本人に訊くわけにもいかない。かといって、ジョンBには酷な質問だ。サンコンにしか訊けなかった。
「そやなー。自然な流れやったと思うけど……ちょっと待てよ。いつからっていうよりは、最初っからやったわ。キャラクターができてたのも」

次にトータスに会った時に、このような質問をぶつけた。
ーー最初から理想の形があったのですか？
「そう。最初にセッションした時にあったんよね。動かし難いバンドの形っていうもんが自然とあった」
バンドとは何なのかーー。
それは、諦めきれないものの象徴、なのだと思う。理想が、物事の発端において、形として既にあるのだ。そしてそれは、時間の経過やまわりの環境の変化や心境の移り変わりなど、挙げればきりがないくらい様々な理由で、始まりから形を変え続ける。だからこそ、長くバンドをやり続ける者たちは、最初の形への憧憬を強く持つ。同時に、変わり続けなければならないという宿命も理解している。大切なのは、最初の形を全員が同じように記憶しているか、その風景を愛しているか、ということだ。そしてウルフルズの4人は、その景色を今でも共有している。もちろん「最初のセッション」と言って４人が同時に浮かべるのは、サンコンが入った時の「最初のセッション」に他ならない。そうであるからこそ、彼らの、じつに起伏に富んだヒストリーを歩んできて、その道の険しさや爽快な眺めが、1本の道でつながっているということが、理解できるのだ。
「ウルフルズの解散はないのよ。どうしたって、ないことになってるのよ(笑)」(トータス松本)

《つづく》

（2007年12月6日号掲載）
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      <![CDATA[ワーナー移籍第一弾アルバムが12月12日リリースです！ 初回限定盤にはDVDもつきますよ。さらに、年明けからは全国ツアーが始まります！(マネージャー・新井雄一朗)

<img alt="KEEP-ON%2C-MOVE-ON.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/KEEP-ON%2C-MOVE-ON.jpg" width="50" height="49" />
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   <title>ジョンＢ、落札</title>
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   <published>2008-01-09T14:56:11Z</published>
   <updated>2008-01-09T15:16:08Z</updated>
   
   <summary>2002年6月、ウルフルズは用賀のスタジオでライブのリハーサルを繰り返していた。...</summary>
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      <![CDATA[2002年6月、ウルフルズは用賀のスタジオでライブのリハーサルを繰り返していた。8月から始まる新しいツアーのための準備だった。トータス松本、ウルフルケイスケ、サンコンJr.、そしてこのツアーからサポートとして新たに加わるベーシスト・高橋Jr.の4人。作業は、とても順調と呼べるようなものではなかった。原因はベーシストにあった。正確に言うなら、高橋が問題なのではなかった。そもそも、結成当初よりこのバンドは常にベーシストに悩まされてきたのである。それを今さら新参の、しかもサポートの高橋のせいには出来ない。問題は明白で、もっと奥深くに根ざすものなのだ。だから、仮に高橋でなかったとしても、事態は同じ線をなぞるだけだったろう。ベーシストというポジションは、ウルフルズの現状を偽り無く映す鏡として存在し、この時もバンドの姿を克明に反射し続けていた。
「悶々とした気持ちでリハーサルに出掛けてた」(トータス松本)

ある日、トータスがリハーサルを終えて自宅にいると、携帯電話に見慣れない番号から着信があった。一旦やり過ごし、留守番電話の通知が入ってから携帯電話を手に取った。機械音の後に続けて、メッセージが流れ始めた。「……黒田です。お久しぶりです。……ちょっと話したいことがあって電話しました」。懐かしい声だった。そう言えば携帯電話のメモリーから“黒田利博”の記録を削除していたのだと、トータスは思い出した。すると突然、今度は自宅の電話が鳴り始めた。電話の主が誰なのかは、もうわかっていた。

「黒田か？　久しぶりやなー。3年ぶりか」
「そうですね。ちょっと話したいことがあって。時間作れないですか？ 」
電話で話した一週間後に、トータスの自宅でふたりは顔を合わせた。コーヒーを飲みながら世間話をした。バンドを辞めてからのジョンＢの生活のことや、お互いの家族の話、共通の知人が今は何をしているか……気がつけば話し始めてから2時間が経っていた。そして、ふとジョンＢが話題を変えた。
「そうそう、観ましたよ。テレビで」
「『笑えれば』やろ」
「はい。ええ曲ですね、あれ。めっちゃええ曲です」
「俺らがテレビ出てるの結構観たりするんか？」
「いや……。たまたま家に居てる時に奥さんが『ウルフルズ出てるよ』って言うから。無視したら変な意地張ってると思われるのも嫌やし。ほんで観たんですわ。……なんか観てて、惜しいなって思って」
「なにがや？」
「惜しい感じがしたんですよ。曲めっちゃええのに、佇まいがなんか違う。なんか合ってない、そんな気がして……」

今さらそんなこと言うな。責める気持ちはさらさら無かったが、一方で複雑な気分にはなった。そしてジョンＢの次の一言は、彼が辞めてからこの時点までトータスにとってはそれを思うことすらはばかられる“禁句”であり“禁じ手”だった。

「ウルフルズに戻りたいんですよ」

テーブルがゴムのように100メートルくらい伸びて、一瞬で縮んで戻ってくるような気がした、とトータスはその時の驚きを表現した。トータス自身、そのことについて考えるということを考えたことすらなかったのだ。もしかしたら、そういう考えがよぎることはあったかもしれない。しかしむしろ、トータスよりもジョンＢにそんな気が起こるわけが無いと思っていた。それだけは確信があった。彼がバンドを辞めたのは、トータス松本から逃げたいがためであり、そのトータス松本は今も、そしてこれからもウルフルズにいるのだ。
「ちょっと考えさせてくれー」（トータス松本）
こう返すのがせいいっぱいだった。

あくる日、ライブ・リハの合間にケイスケを駐車場に誘い出し、昨夜の一件を伝えた。「えーーー！ 」ケイスケは驚いた。
「嬉しかったね。嬉しかったよ、めっちゃ。だから俺は(ジョンＢ復帰は)全然ＯＫやって言った。でも、不安もあった。4人から3人になって、また4人になる。単純に元に戻るのとはちゃうわけやから。どうなんのかなーって」(ケイスケ)

<img alt="%E7%AC%AC15%E5%9B%9E%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC15%E5%9B%9E%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg" width="250" height="270" />
<div id="caption">もともとは、ファンクラブ会報用に撮られたものだったが、後にオフィシャルの
アーティスト写真としても使用された。ジョンＢだけでなく、全員の胸に「復活」
という文字がプリントされているのが何よりウルフルズらしい写真だ。</div>

次にサンコンに声を掛けた。同じように驚いた。しかし、ケイスケの純粋な驚きに比べて、いくぶん微妙なものが入り混じった反応だった。
「『僕はあり得ないですね』って言ったと思う。それはあまりにも勝手な話やと思ってん」(サンコン) 
今すぐに、という話ではない。こう含んだ上でトータスはケイスケとサンコンに伝えた。トータス自身、この予想もしなかった事態にどう対処したらいいのか、いささか混乱していた。手放しに喜んでいいものなのか、それともムシが良すぎると怒るべきものなのか、あるいはそれら様々な感情がごっちゃになって行き着くべき種類のものなのか、それはまるで、見れば見るほどわからなくなる抽象画のように、心に引っ掛かり続けるのだった。何よりタイミングが微妙なのだ。だからこそ、絶妙すぎるのだ。まずは、8月からのツアーを乗り切らなければならない。現実は常に、予測よりも早い速度で彼らを抜き去ろうとする。

9月にツアーを終え、トータスはソロアルバムのレコーディングに取り掛かった。同時に、デビュー10周年記念企画として、12月に5時間ライブを行うことも決まった。ソロも5時間ライブも子安次郎（'02年8月から再びディレクターとして現場に関わるようになっていた）のアイデアだった。そこでトータスは、5時間を1時間ずつ5つのパートに分け、サポートしてくれた歴代のベーシストを迎えてライブをやるのはどうだろうかと持ちかけた。さらに、最後の1時間を、ジョン.Ｂ.チョッパーでやるのはどうだろうか、と。トータスがジョンＢに電話をした。
「黒田、やらへんか？」
「やります」
即答したと言う。

この話を聞いて、カンテの厨房でケイスケがジョンＢを誘った時の話を思い出した。ケイスケによれば、その時彼は「じゃ、やります」とすぐ答えたとのことだった。ベースも何も弾けないにも関わらず、である。ジョンＢのバンドの始まりと、バンドへの復帰を促したものは、何の飾り付けもされることなく同じ言葉だった。しかし、ふたつの地点を結ぶジョンＢが歩んできた道のりを辿ってみると、言葉の背景にある違いに思いを巡らさずにはいられない。

12月25日、渋谷公会堂(現C.C.Lemonホール)で5時間ライブが幕を開けた。
①高橋Jr.　②上野イチロー　③アコースティック・セット　④Chirolyn ……もしや最後は!? 　そんなバカな……会場全体がおぼろげな期待感に包まれる。トータスの呼び込みと共に、ジョン.Ｂ.チョッパーがステージに立った。ジョンＢが現れる、歩く、楽器を持つ、何かをするごとに幾重にも歓声が会場を駆け巡った。3年間の空白を埋めるのに充分な歓声だった。そしてそれは、3人が首をかしげて眺めていた“抽象画”の価値を示す、これ以上無い幸福なカタチでの落札だった。

(2007年11月22日号掲載)]]>
      <![CDATA[只今、メンバー＆スタッフで来年1月からのツアーの打ち合わせ真っ最中です。12月初旬より各地チケットが一般発売されますので、宜しくお願いします！（ マネージャー・新井雄一朗）

CD 
<img alt="%E7%AC%AC15%E5%9B%9EKEEP%20ON%2C%20MOVE%20ON.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC15%E5%9B%9EKEEP%20ON%2C%20MOVE%20ON.jpg" width="100" height="99" />
ニューアルバム発売決定！
『KEEP ON,MOVE ON』12月12日(水)発売
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   <title>「ええ曲」の条件</title>
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   <published>2007-12-21T02:31:00Z</published>
   <updated>2007-12-21T02:56:37Z</updated>
   
   <summary>「カバーが好きやねん、基本的に」惚れ惚れするほど見事なまでに、その口調には「彼の...</summary>
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      <![CDATA[「カバーが好きやねん、基本的に」惚れ惚れするほど見事なまでに、その口調には「彼の好み」しか反映されていなかった。そこに、一切の疑問や推量を挟み込む余地は無かった。トータス松本は、カバーが好きなのである。
大ヒットしたシングル『明日があるさ』（'01年2月16日リリース）に関する取材の中で、それをリリースするべきか否かという判断に相当の時間を費やしたことが多くの人の証言で明らかになった。
「他に曲あるのに、なんで降って湧いたようなカバー曲出さなアカンの？って思った。最初は、めっちゃ抵抗があったね」（ケイスケ）
「（リリースすることが）特に何かの障害になるとは思わなかったので、いいんじゃないですか？って受け止めた記憶がありますね」（栗原秀樹、当時東芝ＥＭＩ宣伝担当、現ＥＭＩミュージックジャパンCapitol Music Co.） 
「シングル・カットしたはいいけど、これが売れなかった時のリスクを考えたらすごい不安でした」（タイスケ・田畑麻奈美） 
「ＣＭソングなんかで売れるかいな。絶対アカンって言うて、一回怒って会議の途中で帰ったこともある」（タイスケ・森本泰輔） 
　こうした紛糾する意見の中にあって、トータスだけは超然としていた。
「カバーやるのは大好きやから。1stアルバムにも2ndアルバムにもカバーが入ってる。しかも『明日があるさ』は元々めっちゃ好きな曲やったし、もう、やるやる！って感じやった」（トータス松本） 
　スタッフの意見がまとまらなかった一番大きな理由は、カバーをやることそのものよりも、やった後のバンドの見え方への不安にあった。ＣＭの話題に便乗してリリースまで行った挙句、もし売れなかったら？　ジョンＢ脱退から下降線を辿っていたセールス、人気、この状況の中で失敗は許されなかった。しかし、トータスは、「好きだから」という理由に加えて、「成功する」という勝算があったと明かす。
「絶対ヒットするって思った。まわりが求めてるのがわかったし。それに、好きな曲に対しては誰よりもその曲をうまく表現出来るっていう根拠の無い自信がある。その自信があるから、カバーで売れることへの抵抗なんか無いし、曲に魂が注ぎ込める。そこは今でも揺ぎ無くあるなー」（トータス松本） 
 さらに、こう続けた。
「黒田がいなくなってから、それまで出来てたウルフルズらしいアホなノリが出せへんようになってたんやね。そこへタイミングよく『明日があるさ』の話があって、バッチリはまった。だってＰＶで３人ともジャージ上下で踊ってるもん（笑）」

<img alt="%E7%AC%AC14%E5%9B%9E3%E4%BA%BA%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC14%E5%9B%9E3%E4%BA%BA%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88.jpg" width="250" height="252" />
<div id="caption">『笑えれば』のときのアーティスト写真。早朝の海の前で撮影されたこの写真は、3人のウルフルズでの最後の写真となった。同曲は、'02年１月より始まったトータス松本主演のテレビドラマ『銀座の恋』のエンディング・テーマとして使用された。</div>


  シングル『明日があるさ』は、80 万枚の大ヒットとなった。さらに続けてリリースした初のベスト盤『ベストだぜ』（'01 年4月28日）も75万枚のセールスを記録した。そして、これらがもたらしたヒットという結果は、かつてのそれとは違い、ウルフルズの３人を苦しめることは無かった。『ガッツだぜ!! 』以降、光も闇も知り尽くした彼らは、もうヒットという迷宮の中で迷うことは無かった。なぜなら、確信を持ってその重たい扉を開けたのだから。
「初めて、売れてうれしいって実感を持てたね。狙ってそこに行くことが出来た。そのうれしさはほんまに、相当なもんやったね。ざまーみろーって思ったから。そんな中で、伊藤銀次もＯＫになっていく（笑）」

　'01 年の夏に、ウルフルズは次のアルバムに向けたレコーディングをロスアンゼルスで行っていた。アメリカのスタジオ特有の乾いた広がりを持つ音が録れていくのに対し、苦労したのは歌詞だった。プロデューサー兼エンジニアのマーク・ハワードには、日本語は理解できない。
「銀次さんに泣きつこうと思った。国際電話をかけて『歌詞助けて欲しいです』って言った。それで、電話とファックスで歌詞のやりとりをして完成させていった」（トータス）　かつて、伊藤銀次とともにヒットまで辿り着いたウルフルズだったが、このまま伊藤に甘えていくことは、結局、伊藤を超えられないまま終わってしまう、とトータスは考えたという。そこで一度伊藤の下を離れ、苦しみ、再度ヒットに辿り着いたというわけだ。自らの手でヒットの扉を開けることが出来た彼らにとって、迷宮の入り口で待っていた伊藤銀次は、以前のような案内役ではなく、一緒に戦う同士であった。
「俺が世界で一番ウルフルズのことわかってるからさー」伊藤は電話口で言ったという。歌詞に対する細かな分析と指摘が、ファックスでＬＡのトータスの元に送られてくる。それを確認して国際電話でまたやり取りをする。
　この、トータス、伊藤の奇妙な遠距離共同作業で出来上がった曲の中に、後にシングルで発表される『笑えれば』があった。一旦、ＬＡでレコーディングしたものの、しかし、伊藤とのやりとりの中で、「邦楽を作りたい」という思いがトータスには芽生えていった。そして、日本に戻ってから改めて伊藤銀次プロデュースでレコーディングし直したのだった。『笑えれば』を作る際、トータスと伊藤が目指したのは、ウルフルズ・オリジナルの『明日があるさ』を作るということだった。つまりそれは、予想に反してカバーにより“ウルフルズらしさ”を取り戻したバンドが、置きっぱなしにしていた課題である〝３人でのウルフルズの構築.に、改めて着手するということに他ならなかった。

　'02年2月20日に『笑えれば』はリリースされた。テレビ番組で、同曲を演奏するウルフルズを見つめていたジョン.B.チョッパーが、「おしいな」との感想を漏らしたという逸話がある。彼が復帰してから語られたこのエピソードは、結果論としての笑い話との印象を受けるが、実は、恐ろしいまでに本質を突いている。『笑えれば』で、３人のウルフルズは、見事にバンドのオリジナルを作ることに成功した。その過程の中で、ウルフルズを意識すればするほど、ウルフルズは４人のバンドなのであるという地点に、知らず知らずのうちに着地していたのだ。カバーでは気づかされることの無かった欠如感が、オリジナルでその輪郭を現し始めた。……という事実を突き詰めて考えると、いかに３人がブレることなくウルフルズに忠実であり続けたかということの証明となる。と同時に、欠けて
いた２つのピースである、伊藤銀次とジョン.B.チョッパーが、ウルフルズにもう一度向き合う契機となったのが偶然にも同じ曲だったという一致に、改めてバンドというものの確かさや、外側から眺めただけでは想像出来ない重みを感じずにはいられない。さらに、この『笑えれば』がーー名曲にも関わらずーーそれほどヒットしなかったという結果は、今では、“それはそうでなければならなかった”必然としてウルフルズの歴史の中に、鮮やかな色合いを落としている。少々都合のいい解釈を許していただけるなら、『笑えれば』がヒットしなかったその余白にこそ、“ジョンＢ復帰”という最後のピースが加えられたのだと、そう思いたい。
　現在、ウルフルズにとって『笑えれば』は無くてはならない曲になっているが、大ヒットした『明日があるさ』が演奏されることは無い。

（2007年11月8日号掲載） ]]>
      <![CDATA[12月12日(水)に発売となるアルバム『KEEP ON,MOVE ON』のプロモーションを行っています。雑誌、ラジオなどかなりの露出をしますよ。もちろん、ぴあも！（マネージャー・新井雄一朗） 

CD 
<img alt="%E7%AC%AC14%E5%9B%9E%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E8%A1%A81.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC14%E5%9B%9E%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E8%A1%A81.jpg" width="50" height="49" />
ニューシングル、発売中！ 
『たしかなこと』
10月31日（水）発売
ワーナーミュージック・ジャパン
ハウス食品「北海道シチュー」ＣＭ 
ソングとして絶賛オンエアー中。]]>
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   <title>転べない三人四脚</title>
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   <published>2007-12-06T20:43:26Z</published>
   <updated>2007-12-06T21:13:47Z</updated>
   
   <summary>　ジョン.B . チョッパーがバンドを脱退した時期は、&apos;99年の12月にリリース...</summary>
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      <![CDATA[　ジョン.B . チョッパーがバンドを脱退した時期は、'99年の12月にリリースが予定されているアルバム(6th『トロフィー』）の制作がまさに始まる直前だった。残った3人にとっては、これほどひとりが抜けた穴を実感することも他にないという、皮肉なタイミングだった。

　ウルフルズのレコーディングまでのプロセスは、デビューしてからの7年の間にほぼその形が出来上がっていた。原曲をトータスが書き、メンバー４人で曲のアンサンブルを仕上げていく。バンドがバンドたるゆえんのひとつがこの作業に凝縮されていると言ってもいい。例えば、ジョンBのベースラインに対してトータスが「こんな感じのほうがええと思
うねん」と自分の意見を乗せていく。するとジョンBは、もう一度ベースラインを弾く。「ちゃうちゃう、ちょっと貸してみー」ジョンＢ からベースを取り上げてトータスが実演して見せてしまう。バンドでなければ成り立たない関係がそこにはあった。

「ひとり欠けるということがバンドにとってこんなに面倒くさいもんなんかということを思い知らされた。これも出来ん、あれも出来んみたいなのがほんま多かったね。だって曲仕上げよかーって言ってもベーシストおらんねんから。で、代わりにスタジオ・ミュージシャンの人がおっても『ちょっと貸してみー』なんて言えるわけないやん(笑)。とは言え、そんな問題ないっちゃないように進んでいくんやけど、なんかこうフラストレーションだけが残っていく、みたいな感じやった」(トータス) 

　その結果、トータスはプロデューサーの藤井丈司とふたりで曲を完成させてしまう。ケイスケとサンコンを半ば無視したような形となってしまった。そういう過程を経て出来た曲がアルバム『トロフィー』('99年12月8日）の中に収められるわけだが、当然このアルバムは3人になったウルフルズの最初の作品という意味でも注目を集めた。しかしセールスは、芳しくなかった。3人になったことへのとまどいや焦りといったシリアスな感情がそのまま音に表れていた。当時、東芝EMIで制作と宣伝の両方を担当していた栗原秀樹（現EMIミュージックジャパンCapitol Music Co.)は当時をふり返る。

「僕はジョンBが抜ける直前からウルフルズと仕事を始めたんですけど、当初はトータスがいればいいみたいなイメージもあったんですよ。でも、抜けてみると失ったものの大きさってのがものすごくわかるんですよね。写真撮影ひとつにしても、なんかしっくりこないし……。完全にバンドのバランスが変わりましたよね。だからそこから何年かは、4人から3人になったバンドでのバランスを取っていく期間だったんじゃないでしょうか」

　リリースの後にはツアーが待っている。もはやバンドのルーティンだ。しかも幸か不幸か、今まででもっとも本数の多い全国45本という大きなツアーが３人を待ち構えていた。ただ、この45本という規模は、ジョンB脱退とは直接の関係は無い。この前年、バカ正直連合ツアーというファンクラブ・ツアーのみのライブ活動だったということもあり、'00年は大規模なツアーを行うというのがバンド、スタッフの間では共通認識になっていた。仮に、アルバム制作の段階で、ツアーに対する不安が募っていたとしてもほとんど誰もが不安視していたのではないかと推測するーー ツアーの規模を縮小しようなどとは誰も言い出せなかったに違いない。メンバーの脱退に続いてツアーの規模縮小、それはバンドのイメージを著しく傷つける結果となる。ただただ膨らみ続ける不安の中で、メンバーもスタッフもそれを割らないように慎重に仕事をこなしていった。

　'01年1月から4月まで『爆旅』と題された約4ヵ月に及ぶツアーが始まった。始まってすぐ、前回のツアーと決定的に違う点をすぐに思い知らされた。動員が目に見えて落ちていたのだ。メンバーがステージに勢いよく飛び出して行くと、2階席の一角がポッカリと空いているという状況がどこのホールでも当たり前の光景となった。「どうもー、ウルフルズでーす。今日も2階席の後ろの方空いてもうてるやん。黒田のファンやな」ライブ中のＭＣでも自虐的なギャグが目立つようになっていた。

　さらに、地方の公演に行くと、まず向かう先は地元のFM曲ということが多くなった。そこで、ライブに向けての意気込みなどのちょっとしたコメントを収録するのだ。怪訝に思いながらも、嫌とは言えなかった。東京、大阪、名古屋など大都市圏の動員は問題なかったが、地方での減少はもはや隠しようがなかった。『ガッツだぜ!! 』のブレイク以降、動員など満員で当たり前という意識でやってきた自分達の感覚が麻痺していたんだということを初めて思い知らされた。

<img alt="%E7%AC%AC13%E5%9B%9E.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC13%E5%9B%9E.jpg" width="401" height="326" /><div id="caption">当時のアーティスト写真。シングル『ヤング・ソウル・ダイナマイト』のPV撮影はタイで敢行された。
監督の竹内鉄郎曰く「とにかく爆発させたかった」</div>


「俺らは今まで幻想の中でやってたんやな。出て行ったら満員の客がワーッて言ってくれるのは幻想やったんやなー。メンバーがひとり減っただけで客ってこんなに減るんや。ショックやったね」(トータス) 
トータスは、そのショックを振り払うようにテンションの高いパフォーマンスを披露していった。そしてライブを終えて、深夜に帰ってからは、ホームページのBBSに自分の思いを書き連ねた。毎日朝方まで書いた。今日のライブはもっとここをこうするべきだった、ということから始まり、バンドの本質論、果ては人間存在そのものを問いかけるような内容まで、明らかに自分自身に向けてキーボードを叩いた。

　ウルフルズ史上最も過酷と言われるツアーが終わった。もうバンドには何も残されていなかった。トータスの言葉を借りれば「八方ふさがり」だった。クリアしなければいけない課題は多すぎて逆に何も見えなかった。ハッキリと感じるのは、3 人のぎこちない関係とますます大きくなるジョンBの抜けた穴だった。
「当時、ラジオとか雑誌の取材なんかで、『むしろ風通しが良くなった』みたいなことを言ってたんやけど、全然そんなことない。せいせいしたって言ってたのは俺の単なる負け惜しみというか強がりというか」(トータス) 

　それでも、ウルフルズは前に進まなければならない。来る仕事やスタッフがやりたいといった事に対して前向きに受け入れていった。しかし、トータスの頭の中は、常に次の一手をどうすればいいかという問題でいっぱいだった。スタッフの呼びかけで、8月にウルフルズ主催の野外イベント『ヤッサ』が大阪吹田市のエキスポ・ランドで開催された時も、次はどうするべきか、どんな曲を書いたらいいのか、どう人間関係を構築していくべきか、考え続けた。曲をリリースしよう、メーカーからは当然せかされる。しかしウルフルズが次に出すべき曲はどんなものなのか？　あえて言うなら、それはヒット曲でなければならなかった。トータスがレコーディングをした候補曲があるにはあったが、どれも決め手に欠けていた。『ガッツだぜ!! 』『バンザイ』で答えを出した“ヒット曲”は、求めるものから求められるものへと姿を変えて、より一層バンドを苦しめ続けるのだった。

（2007年10月25日号掲載） ]]>
      <![CDATA[ウルフルズ近況
12月1 2日(水)11th アルバム『KEEP ON,MOVE ON 』が発売になります。移籍後第1弾、ご期待ください！そして、来年1月から始まるツアーも決まりました。（ マネージャー・新井雄一朗）

CD 
ニューシングル、発売決定！
『たしかなこと』
<img alt="%E7%AC%AC13%E5%9B%9E%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E8%A1%A81.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC13%E5%9B%9E%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E8%A1%A81.jpg" width="50" height="49" />
10 月31 日（水）発売
ワーナーミュージック・ジャパン
ハウス食品「北海道シチュー」ＣＭソングとして絶賛オンエアー中。
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   </content>
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   <title>トータスの壁Ⅱ</title>
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   <published>2007-11-01T04:21:30Z</published>
   <updated>2007-11-01T04:31:51Z</updated>
   
   <summary>「もう嫌やな、と思ってん」  代官山にあるカフェの一番奥の席で、ジョン.Ｂ.チョ...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.pia.jp/ulfuls/">
      <![CDATA[「もう嫌やな、と思ってん」
 代官山にあるカフェの一番奥の席で、ジョン.Ｂ.チョッパーは、自身がバンドを辞めた理由について話し始めた。店内に流れる軽快な音楽とは対照的に、その口調にはどこか重たいものが感じられた。
「もう松本君と一緒におるのは嫌や。こんな人とおるのはしんどい。……そう思うとどんどんやる気を失くしていってしもた」
  ベース・プレイヤーとして、遅い歩みながらも着実に自分なりの自信をつけていったジョンＢだったが、結果としてそれは、音楽の奥深さを知らされることになった。クリアしなければいけない地点が、まだずっと先に無数にあることが分かった。そしてその遥か先にはトータス松本がいた。そのトータスはもっと先へと進もうとしていた。
「今さら追いつけるわけがない。俺はなんなんや。キャラクターばっかりが先行してて……。松本君が怖くなった、と同時に、もう辞めるしかないと思った」

 この連載の取材で何度かジョンＢと話をした。驚かされるのは、彼の持つ本質を見抜く能力だ。そう言えば、トータスがこんな話をしてくれたのを思い出した。それはまだ、バンドを結成して少し経った頃、トータスがオリジナルの楽しさに目覚めて曲を書き始めた頃の話だ。
「ケイヤンってなんでもウェルカムな人やねん。どんな曲書いていっても『ええやん、ええやん』って言ってくれる。でも黒田が……ま、当時の立場はケイヤンとは全然違うけど（笑）……たまーに『それ、いいスね』とかボソッと言いよるんよ。それがめっちゃうれしい。黒田の判断がめっちゃうれしかった。だから、ウルフルズを客に見せる場合に、黒田の客観的なフィルターを通した方がいいというような気がしてて、そういう意味でも黒田は重要な存在やった」
  トータス松本との圧倒的な才能の差。バンドを組んだ頃よりそれは明らかなはずだったが、その差が埋まる種類のものではないとジョンＢは見抜いてしまった。
「はっきり言って、俺と松本君との音楽的な才能の差なんて、ものすごいと思う。鳴ってる音感とかリズムとか全然違うよ。それでも音楽を一緒にやっていくには、メンタルで同じところにおらな出来へん」
  トータス松本という巨大な才能を持つ人物が、バンドをどういった方向に導こうとしているのか、それに応えるにはどういった音を出したらいいのか。想像するだけでも、そのプレッシャーは相当なものだろう。
「だから俺は、1回やる気を失くしてるのよ」
少し間があり、ジョンＢが続けた。
「何をしても……こういうこと喋ってても、常に松本君が出てくる。こんな人生嫌やで！アマチュアの頃からずーっと一緒、トラウマの塊ですよ。もうそれが嫌で嫌で、とにかく松本君から逃げたくて逃げたくて。でもそんなん、誰にも言われへん。……トータス松本と一生このまま過ごすのは嫌やって、冷めてもうたんや。1回売れて頂点に行くと松本君の凄さがよう分かった。自分の中には松本君っていうのが常にあって、肝心の自分とはちゃんと向き合えてなかった」

  例えば、モーツァルトの才能の凄さを誰よりも理解できるという才能を持ち合わせてしまった不幸な音楽家、アントニオ・サリエリのように、ジョンＢの頭の中はトータス松本に侵食されていった。もはや、プレイヤーとしての冷静な判断はあるわけがなく、ただトータスから逃げたいという一心だった。ジョンＢの中にジョンＢは存在していなかった。傍目には、そんなジョンＢは、単純に自分に自信が無い人間に映ったことだろう。そして、プレイヤーとして相変わらず未熟に思われたことだろう。トータス松本を妬んでいるようにさえ見えたことだろう。その通りである。その通りなのだが、一皮めくればなんと壮絶な思いと絶望が渦巻いていることか。
　才能を理解できる才能。その能力は返す刀で自分自身を傷つけていく。サリエリの回顧談でモーツァルトを描き話題となった映画『アマデウス』のラストシーンが印象的だ。精神に異常をきたし、収容されていた病院の中でサリエリは言う。自分は、凡庸なる者の神なのだと。そして精神病患者たちが群がる通路を車椅子で押されながら、独り言のように繰り返す。
「凡庸なる人々よ、罪を許そう」

<img alt="%E7%AC%AC12%E5%9B%9E%E8%AA%8C%E9%9D%A21.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC12%E5%9B%9E%E8%AA%8C%E9%9D%A21.jpg" width="250" height="175" />
<img alt="%E7%AC%AC12%E5%9B%9E%E8%AA%8C%E9%9D%A2%EF%BC%92.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC12%E5%9B%9E%E8%AA%8C%E9%9D%A2%EF%BC%92.jpg" width="250" height="178" />

<div id="caption">ジョンＢ脱退を伝えるファンクラブ会報誌。当時のマネージャーとトータス、
ケイスケ、サンコンの対談が合計6P分ギッシリある。トータスの口調の中に
スッキリしたものと徒労感が感じられる</div>

　1999年8月1日、ジョン.Ｂ. チョッパー脱退が正式に発表された。間接的にではあるが、トータス松本に、この取材でジョンＢが語った脱退時の思いを伝えた。そして、改めてジョンＢ を失った意味を問うてみた。
「だからやっぱり、なんちゅうのかな…… バンドのメンバーってそれぞれがそれぞれの分身やと思うのね。黒田は…… そこの思いが一番強いんかな。俺が曲を書いて歌ってるわけやから、メンバーは俺を自分の分身やと思わなバンドなんかうまくいかへんわけよ。で、肝心なのは、自分を松本に投影する時に、いかに自分を持ったままやれるか、ということやねん。単に自分を抑えて松本に迎合したら、それはバンドやない。ただその個人の弱さを露呈してるだけや。全然違う他人が無理矢理合わさる時のあの変な拒絶感、あれが大事なんやね。おもろい音楽を生むんやね。それを今やれるのが黒田しかおれへんかったりする。それはもう一度松本と向き合うには自分に何が足らんのかということを嫌と言うほど考えたからやろうね。ウルフルズの誰よりもウルフルズのことを考えたからやろうね。だから黒田っていうのは、いいも悪いも俺のこと理解してしまっているのね。そう考えると、黒田があの時辞めざるを得なかったというのは、必要なことやったんやろうね」（トータス） 

　一方ジョンＢには、今現在の気持ちを訊いてみた。
「なんでもそうやと思うけど、自信ある部分とまったく駄目な部分ていうのと両方持ってんと、ちゃんとした“ものづくり”は出来へんと思う。小さい世界におると見失いがちで、常に恐怖感と闘っとかんと進歩ないし。…… なんとなく感じ始めて。こういうのを自覚って言うんやな。そうすると不思議といろいろなことが見えてくる。自分のこともバンドのことも松本君のことも。仲が良いとか悪いとかじゃなくて、大切な気持ちが分かってくる。その部分をクリアしていくと、あんまりイザコザが無くなっていく。まだまだ不満はあるやろうけども、そんなにギクシャクしたものはなくなった。そうなると、楽器の演奏が面白くなってきて自信が出てくる。と同時にアカンところも見えてきて、だんだんハッキリしてくる。そういうことがハッキリしてくると、自分の人生、どういう道を進んでいくかって迷いが無くなる。もし、これでアカンかったら、しゃあない（笑）」

　これで、僕の今までのウルフルズは全てです。ジョンＢは、そう言って勝手に取材を終わらせてしまった。しかし、脱退の真相に関して、これ以上こちらに訊くことは、もう何も無かった。もし、凡庸なる者の神がいるとして、その神は、とっくにジョン
Ｂを見放していた。

（2007年10月11日号掲載） ]]>
      <![CDATA[J-WAVE でトータス松本のレギュラー復活です！『OH! MY RADIO』毎週水曜24:30～26:00 のオンエアーです。ぜひぜひチェックしてみてください！(マネージャー・新井雄一朗)

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ニューシングル、発売決定！
<img alt="%E7%AC%AC12%E5%9B%9E%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E8%A1%A81.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC12%E5%9B%9E%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E8%A1%A81.jpg" width="50" height="49" />
『たしかなこと』
10月31日(水)発売
ワーナーミュージック・ジャパンハウス食品「北海道シチュー」ＣＭソングとして絶賛オンエアー中。]]>
   </content>
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   <title>トータスの壁Ⅰ</title>
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   <id>tag:blog.pia.jp,2007:/ulfuls//4.139</id>
   
   <published>2007-10-17T12:41:41Z</published>
   <updated>2007-10-17T12:53:01Z</updated>
   
   <summary>　メンバーの出会いから追い続けてきたこの連載も、ブレイク後の1997年に差し掛か...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.pia.jp/ulfuls/">
      <![CDATA[　メンバーの出会いから追い続けてきたこの連載も、ブレイク後の1997年に差し掛かっている。この約2年後の1999年8月1日にベーシスト、ジョン.B. チョッパーが脱退するわけであるが、その兆候はこの頃に既に見られていた。
「だから、ウルフルズの活動って、何かを掴みかけては何かが抜けていく、みたいな感じ」(トータス) 
『ガッツだぜ!! 』『バンザイ』での予想をはるかに超えるブレイク後遺症を音楽的には抜け出そうとしていた時期だけに、バンドは何が何でも前進しなければならなかった。

　そのために、ウルフルズはますます実質的にトータス松本が牽引するバンドとなっていった。作詞作曲はもちろん、活動に関わる様々なアイデアまで、すべてはトータス松本を起点としなければ成り立たなくなっていた。トータス自身も、自分がやらなければいけないという責任感がブレイクを境に強くなった。ただ、だからと言ってトータス自身に完全なワンマン・バンドにしようというような意識があったというわけでは決してない。
「そら、松本が作った曲への信頼感がすべてやと思ってる。それは、ケイヤンにも黒田にもサンコンにもあるやろと。だけど、基本的には俺のやりたいことしかやってないわけよ。だから当然ずれる場合もある。…… オレもねー、簡単に吐き捨てるように言うてまうから。『もうギター、ギャンギャンうるさい音楽やりたないわ』とかさ。そうするとケイヤンはガクッとくるわけよ、ギタリストやから。しかもケイヤンがその時、ギターをギャンギャン弾きたいモードやったら、ものすごい落差が生じてしまうやん？　その時に肝心なのは、その場で自分の気持ちを言おうやってことやねん。そうやってぶつかってハジけるところにバンドのマジックってあるんやから」（トータス)

　しかし、トータス自身の思いとは別に、ジョン.B.チョッパーがバンドに対してモチベーションを保てなくなったのは、トータス松本主導で動くウルフルズへの抵抗感や虚無感からだ、とトータスは明かす。

　本当だろうか？　確かにトータスは、アマチュアの頃からジョンＢのプレイヤーとしてのスキルの無さを指摘してきた。ただ、だからと言って、なぜあいつをクビにしないのかと他のメンバーに言われれば、リーダーのウルフルケイスケと協議の上、ジョンＢ当人ではなくジョンＢと合わないその人物をクビにした、というエピソードはこの連載でも触れた。そして上京し、メジャーデビューしてからは、明らかにトータスの比重がバンドの中では重くなった。それはそうしなければ、ブレイクもしなかっただろうし、ウルフルズがメジャーで存続しているかさえもあやしい。だから疑問に思うのだ。なぜ、ブレイク以降に、トータス中心のバンド体制に、引いてはトータス個人に異を唱える必要性があったのかと。思い出すのは、伊藤銀次の言葉だ。
「彼らには確かな絆があるんですよ」
ジョンＢ脱退の真相、その核心に迫るために、まずはどういう経緯で脱退に至ったのかをトータスとジョンＢふたりの取材を元に追っていく。

<img alt="%E7%AC%AC11%E5%9B%9E01.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC11%E5%9B%9E01.jpg" width="250" height="305" />
<img alt="%E7%AC%AC11%E5%9B%9E02.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC11%E5%9B%9E02.jpg" width="250" height="178" />
<div id="caption">1997～98年にかけて使用されたオフィシャル写真。ジョンＢ休養中は、
彼の等身大パネルを持参し、音楽番組に出演した。</div>

　最初は、アルバム『Let's Go』(1997年3月26日リリース)のレコーディング時に表面化した。1997年初頭から4thアルバム『Let's Go 』のレコーディングが始まった。プロデューサーは、一旦、伊藤銀次の元を離れ、新たに吉田建を迎えて制作が進められていた。伊藤銀次のやり方と吉田建のやり方は、当然のことながらまったく違った。これまでベースダビングにかなりの時間を費やしてきた伊藤のやり方に慣れていたジョンＢ は、伊藤と比べてスピーディーな吉田のやり方にとまどいを覚えた。吉田は、あくまでミリオン・ヒットを記録したトップ・アーティストとしてのウルフルズと向き合っていたのだ。加えて吉田はベーシストだ。自然、ダメ出しをされる回数も多くなる。自分を成長させる聖域であるはずのレコーディングの場が、居心地の悪い空間へと変わっていった。「オレ、やっぱ向いてないんかな」自分の殻に閉じこもるようになってしまった。
「中古車情報誌とか見るでもなくめくりながらボーッとしてる。ちょっとおかしいなって思いだして。ケイヤンは1回問題をクリアしてるから大丈夫。サンコンは元気にやってる。俺は俺でどんな曲書いたらええねんって迷いながらもある程度方向性は見えてきた。唯一、黒田だけがいつもと違うっていうのがあって」(トータス) 

　アルバムのレコーディングが終わり、最後の曲のミックス・ダウンの日に、とうとうジョンＢは倒れてしまった。スタジオの隅でうずくまり、うわ言のように誰にとも無く謝り続けていたという。アルバム発売後、プロモーション活動がかなりの本数入っていたが、約2ヵ月間ジョンＢに休暇を与えた。
　その期間中、トータスとジョンＢは心の内を話し合った。ジョンＢが悩みを口にすると、「またか」と言って撥ね付けていた自分をトータスは反省した。その上でバンドを続る意思があるかと問うと、ジョンＢは、ウルフルズが好きだからここに居たいと答えた。プレイヤーとしての自信の無さよりもウルフルズへの愛着の方がまだ上回っていた。

<img alt="%E7%AC%AC11%E5%9B%9E03.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC11%E5%9B%9E03.jpg" width="250" height="331" />
<img alt="%E7%AC%AC11%E5%9B%9E04.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC11%E5%9B%9E04.jpg" width="250" height="357" />

　復帰したジョンＢが最初に迎えた試練は、『Let's Goツアー』(1997年3～6月）だった。トータスは、バンドの音がどうのこうのというよりも、いつジョンＢがダメになるかどうか気が気でなかった。
「ツアー中はいつも黒田の顔色とか気にしとった。暗い顔してる時は、なんとか2時間だけもってくれーって祈ってた」（トータス）
「もう、誰に向かって何のためにベース弾いてるのか全然わからへんかった」(ジョンＢ
　そんな状態に、ツアーというある種閉じられた状況が追い討ちをかけるのは明らかだった。
　
　ツアー終了後、『かわいいひと』(1997年10月8日リリース）、『しあわせですか』( 1997年12月10日リリース）というシングル2枚のレコーディングがあったが、かなりの部分で吉田の手を借りなければならなかった。1997年が終わり、1998年になって5thアルバム『サンキュー・フォー・ザ・ミュージック』(1998年6月17日リリース)のレコーディングをなんとかこなしたジョンＢだったが、状況が好転することはなかった。そしてツアーを経て1999年に突入する。

<img alt="%E7%AC%AC11%E5%9B%9E05.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC11%E5%9B%9E05.jpg" width="250" height="203" />

　なぜ、ジョンＢはウルフルズを辞めたのか。その前に、なぜそれほどまでに追い詰められていたのか。あるいは何が彼を追い詰めていたのか。繰り返しになるが、トータスの
見解はこうだ。
「ベースに自信がないっていうのは、昔っからやから。それがくすぶってたというのはあると思うけど、根本的な原因ではないやろ。それよりも、ますます俺主導で引っ張っていくバンドになったウルフルズの中で黒田が自分のやるべきことを見失ったんちゃうかな。黒田の中では、ケイヤンが引っ張っていくバンドの原型が確固としてあったんやろうね」　事実、1999年に入って、トータスはジョンＢが自分に対してこれまでになくぶつかってくるようになったと言う。そして「もう一緒にやっていくのは難しい」という結論に到達する。マジックは生まれなかった。

　原因はトータス松本。これは明らかだ。しかしその裏にある、トータスに対するジョンＢのあまりにも深い理解と思いを知らなければ、脱退の真相は見えてこない。
「もう、ええやん（笑）」ジョン.B.チョッパーはどこかバツが悪そうに語り始めた。

(2007年9月27日号掲載) ]]>
      10月24日（水）にリリースされる『奥田民生・カバーズ』にウルフルズが参加しました。数ある民生さんレパートリーの中から何を選んだか、お楽しみに！（マネージャー・新井雄一朗）

CD 
ニューシングル、発売決定！
『たしかなこと』
10月31日（水）発売
ワーナー・ミュージック・ジャパンハウス食品「北海道シチュー」CMソングとして絶賛オンエアー中。
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   <title>ヒットの余波</title>
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   <published>2007-10-03T12:56:39Z</published>
   <updated>2007-10-17T12:40:18Z</updated>
   
   <summary>『ガッツだぜ!! 』は売れた。さらに、すぐ後に『バンザイ～好きでよかった～』(シ...</summary>
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      <![CDATA[『ガッツだぜ!! 』は売れた。さらに、すぐ後に『バンザイ～好きでよかった～』(シングル、1996年2月7日）がリリースされるわけだが、以降、バンドの望むと望まざるとに関わらず、この2曲はウルフルズの代表曲として常に求められることになる。そしてこのメガヒットの呪縛に絡め取られ、もがく様こそがウルフルズの現実となり、歴史となっていくのだ。
　一体、ヒットするということはどういうことなのだろう。デビューからここまでウルフルズと共に歩んできた池田日都美(現EMIミュージック・ジャパン東京第2営業所所長）はこう振り返る。
「ものすごい勢いであそこまで売れてしまったって感じなんですよね。ロックバンドとしては、何十万枚くらいのセールスのほうが自分達の理想とする良質な音楽を提供出来るのかもしれませんし……」
　あんなことになるとは、と言いながら、しかし一方でその時のうれしさをつい昨日のことのように話してくれた。
「アルバム『バンザイ』(1996年1月24日リリース)が、オリコン初登場2位だったんですよ。それで、当時の東芝EMIの社長と会って、その後に取材があるからと言って別室に入れたんですよ。そこに営業スタッフから宣伝スタッフからみんないて『おめでとう～！』ってクラッカーならして手作りのパーティーをしました(笑)。メンバーは4人とも号泣してましたね。それにしても、ひとつのアーティストがブレイクして、こんなにも多くのスタッフが一緒に泣くなんていうのは、ウルフルズだけだと私は思います」

<img alt="%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%90%E5%9B%9E%E3%81%B4%E3%81%82%E8%A1%A81.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%90%E5%9B%9E%E3%81%B4%E3%81%82%E8%A1%A81.jpg" width="250" height="364" />
<div id="caption">急激なブレイク、猛烈な忙しさの1996年を象徴する物的証拠のひとつ。
シングル『コマソンNo.1』リリース直前、紅白歌合戦出場決定のタイミングで登場。</div>


　一方、事務所社長の森本は興奮気味にその当時の様子を語ってくれた。
「それまで1万枚がやっとの世界でやってきたのに、『ガッツだぜ!! 』出したらいきなり3万8000 枚の注文が来た！ 　ほんで年が明けてアルバム出したらドッカーン、や。会社の電話が鳴りっぱなしになってもうた。テレビ番組とか出してもうたり、どこ行ってもすごい扱いや。ほんでゴールデンウィーク前に（アルバムが）100万枚いったんかな。その時やね。その時にやっと実感湧いた。涙が出てきた。だってこれでアカンかったらもうほんまに大阪帰ろうと思ってたから」
　カンテでのバイト時代からの仲間、高須光聖はウルフルズのブレイクをこう説明してくれた。
「ちょうど大阪的なもんが注目を集めだした時やったんですよ。それはダウンタウンの影響がやっぱり大きかったと思います。『ごっつええ感じ』の視聴率もすごく良い時期でした。そんな中で『ガッツだぜ!! 』『バンザイ』が出てきて、ウルフルズの濃いキャラクターも認知されていきましたよね。それで、ウルフルズが『HEY!～』のミュージック・チャンプに出るってなって、僕普段は『HEY!～』の収録には行かないんですけど、その時はさすがに行きましたね（笑）。ダウンタウンとウルフルズが同じ舞台に立ってるっていうのはちょっと、なんでしょう……不思議やなーっていうのと感動っていうのが混じった変な感じでした」

　また、ウルフルズのキャラクターをもっとも効果的にブレなく伝えたのがプロモーション・ビデオだった。デビュー作『やぶれかぶれ』からずっとウルフルズのＰＶを撮り続けている竹内鉄郎は『ガッツだぜ!! 』の制作段階をふり返ってくれた。
「小室哲哉さんのサウンドとかZARDとか、邦楽全般がアカ抜けてきていた頃だったので、逆にドメスティックなものが受けるだろうと思ってました。だから、ちょんまげ(笑)。それに1回死んで生き返るっていう大阪的しつこさをどんどん入れていきました。スペースシャワーＴＶが開局して1年後という絶好のタイミングで、あのPVが世に出たのは本当に奇跡かもしれません」

　さて、当の本人たちは、この1995年暮れから1996年の1年間を口を揃えて「何をしてたか覚えてない」と話す。当時のスケジュール帳を見てみも真っ黒だ。雑誌の取材やら撮影、テレビ出演にラジオ出演……ありとあらゆる場所に出続けた1年だということがわかる。そして待ち受けているのは、追い求めて得た結果に苦しめられるというジレンマ……成功物語には無くてはならないこのお馴染みのストーリーは、ウルフルズにも例外なくきちんと用意されていた。
「自分のことを保つのが精一杯。俺は本当に音楽をやりたかったんか？　こんな気分でも音楽をやらなアカンのか？　どんどん見失っていく感じ。それで、これは俺の性格なんやけど、売れてるっていうことに対して浮かれられへんのが一番悲しかった」
　ヒット曲を作りたい、その思いだけで辿り着いたヒットという結果の衝撃はあまりにも大きすぎた。気がつけば、思い描いていた“理想”を遥かに超えた地点に立っていた。根拠の無い自信から始まったウルフルズの活動は、無自覚に根拠の無い不安に襲われることとなった。

<img alt="%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%90%E5%9B%9E%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%A4AL.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%90%E5%9B%9E%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%A4AL.jpg" width="170" height="173" />

<img alt="%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%90%E5%9B%9E%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%A4SG.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%90%E5%9B%9E%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%A4SG.jpg" width="120" height="236" />
<div id="caption">名曲『バンザイ』は、自宅への帰り道に突然メロディが降ってきた。
ちなみに歌詞に出てくるコンビニにはモデルがある。</div>

　アルバムが100万枚に届こうかという春の昼下がり、築ン十年のオンボロのハイツから移り住んだばかりの100㎡のマンションの片隅で、トータスはある光景を思い浮かべていた。ウルフルズを結成するもっと前、まだ田舎の高校生だった頃、大阪の厚生年金会館にＲＣサクセションのライブを観に行った。何もかもがキラキラしたその場の出来事に心を奪われた。そして、俺もあそこ(ステージ)に立つ人間になるのだと誓った。
「俺はあの人(忌野清志郎)になろうって。……それが原風景やから、それ以上のことはわからへん。2000人とか3000人とか、それくらいの人がワーッて言うてる、俺が歌ってる……そのくらい。俺の達成したかった目標って。それをはるかに超えてしもた、一気に」
　
　ヒット曲、という目標の意味は、『ガッツだぜ!!』『バンザイ』みたいな曲、にすり替わっていった。それは自分達のやりたい音楽では決してなかった。もっと正確に言うなら、それだけが自分達のやりたい音楽ではなかった。特に『ガッツだぜ!!』は、トータスにとっては元々が“おまけ”だったのだ。それが、まわりにあおられてあれよあれよという間に曲になった。本人に聞いても「俺にとっては一生おまけ。いまだに歌ってて1回も酔いしれたことがないねん」と、断言する。それはあるいは、彼を苦しめる原因となった曲への復讐心がそう言わせているだけなのかもしれないが……。
　ヒットするということ、それは改めて音楽をやる意味を問われるということだ。単純にヒットしたい、お金を稼ぎたいという即物的な思いで一生を全うできるほど音楽は生ぬるいものではないのだ。なぜなら音楽を始めとする表現に答えという簡単な出口はないのだから。一度入ったら答えの出ないまま答えを追い求めて一生過ごさなくてはならない。その覚悟があるのか？ 　ウルフルズのＣＤを買った100万人が連呼する。耳を塞いでも、目を閉じても、その声が止むことは無い。
「おまえはなぜ音楽をやるのだ？」ーーあるはずの無い答えを見つけてとにかく安心したかった。そうやって1996年は、悩みと忙しさの渦の中で終わっていった。

　明けて1997年2月26日、シングル『それが答えだ！ 』をリリースする。そこには、答えなんて無い、という悟りが、『ガッツだぜ!! 』を思わせるダンス・ビートの上で弾けていた。世間に求められることと、自分達の理想とのバランス。ヒットを経験したからこそ持つことの出来るオールで、やっと『ガッツだぜ!! 』『バンザイ』以降の海を漕ぎ出した、ように思えた。

(2007年9月13日号掲載)]]>
      夏フェス・シーズンが終わって、ニューシングルに向けて動き出します。
まずは、ハウス食品「北海道シチュー」のＣＭをチェックしてみて下さい。
（マネージャー・新井雄一朗）

CD 
ニューシングル、発売決定！
『たしかなこと』
10月31日（水）発売
ワーナー・ミュージック・ジャパン
ハウス食品「北海道シチュー」ＣＭソングとして絶賛オンエアー中。
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   <title>バッタもんの美学</title>
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   <published>2007-09-20T00:30:00Z</published>
   <updated>2007-09-20T00:48:19Z</updated>
   
   <summary>　 &apos;95年9月、『勝負のシングル』といわば最初から仮題がついているような曲の候...</summary>
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      <![CDATA[　 '95年9月、『勝負のシングル』といわば最初から仮題がついているような曲の候補がトータス松本より数曲テーブルに載せられた。この１ヵ月ほど前、トータスは伊藤銀次から「次のシングルが勝負だぞ」とハッパをかけられていた。伊藤と組んでやってきた〝ヒット曲の完成形”を示そうと張り切って曲作りに取り掛かり、その結晶を今、目の前の男達に差し出したのだ。レコード会社のディレクターである子安次郎、プロデューサーの伊藤、そして音楽出版を管理するフジパシフィックの上阪伸夫、この３人を納得させなければ曲がＣＤになることはない。トータスは自信を持ってデッキのプレイボタンを押した。メンバーも緊張の面持ちで音に耳を傾けた。1曲目……２曲目……曲が進むにつれ、子安、伊藤、上阪の失望の色が濃くなっていった。そして彼らを少しも満足させることなくデモテープは無音となった。
　
　この時トータスが作ってきた曲は、あたかもその辺から借りて来たような、メロディアスなものばかりだった。トータスにしてみれば、何十年後も残るメロディをこの大事なタイミングで示しておきたいと思ったのだ。
「ちゃんとした音楽をやりたいという気持ちがあったから(笑)。『大阪ストラット(パートII)』も『SUNSUNSUN'95』も『トコトンで行こう！』も全部そうや、こんなんが永遠のスタンダードになるやなんて思われへん。10年後に恥ずかしくて歌われへんやろなって思ってた」(トータス)

　しかし、伊藤たちは真逆の考え方だった。今まで半年以上かけて築き上げて来たものは何だったのか。徒労感に襲われた。
「トータスになんでこんな曲を持ってきたの？って聞いたら、『ヒットチャートを見てみても俺らみたいな曲は無い。世の中の流れの中に俺達の曲は入ってない』と。それを聞いた瞬間愕然としましたね。トータス違うんだよ！　俺らはわざわざ浮いてるところをやってるわけ。みんなミスチルやスピッツのような音楽をやってその席に群がってる。だから、空きっ放しになってるＲＣサクセションの席をウルフルズだけで占拠しようとしてるんじゃないか！って話を懇々としました」(伊藤)

　あのアホな路線をこれ以上どう突き詰めろというんじゃ……トータスは意地になって美メロを追求し続けた。再び曲作りに没頭するある日、ふと、1枚のレコードを手に取って針を落とした。ＫＣ＆ザ・サンシャイン・バンドのベスト盤。偶然にもそれは、ウルフルズのバンド名の由来となったアルバムだった。ジャケットの帯文のソウルフルが「ソ」と「ウルフル」で改行されていたのを面白がって付けたのがそもそもの始まりだった。そんなことを懐かしく思いながら、名曲『ザッツ・ザ・ウェイ』のメロディに乗せて「ガッツだぜ～」と歌ってみた。トータスは自分でもアホらしくなったが、一応テープに吹き込むだけ吹き込んでおいた。

<img alt="%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E5%8F%B3%E4%B8%8A.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E5%8F%B3%E4%B8%8A.jpg" width="250" height="168" />
<img alt="%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E5%8F%B3%E4%B8%8B.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E5%8F%B3%E4%B8%8B.jpg" width="250" height="168" />
<div id="caption">レコーディング風景が使われた当時のアーティスト写真。『ガッツだぜ!!』は、あれよあれよという間に完成した。半信半疑のトータスにケイスケは偶然出くわしたトイレでヒットを予言したという有名な逸話がある。ケイスケの勘は妙に当たる。</div>


　一方、伊藤はトータスの様子から何か手を打っておかないとマズイと思い、事務所のタイスケに行って大阪時代の未発表音源を全て聴いた。原石が強烈な個性を放っていた頃の音、そこに何かあればと思ったのだが、使えそうなものは何も無かった。
　それぞれの思いが同じ目的に向かって交錯する。トータスの目の前にはまた例の3人が構えていた。新たに作った曲をひとつづつ解説してプレゼンした。しかし、3人の顔は前
回同様曇るばかりだった。遂に最後の曲となったが、結局何のリアクションも得られなかった。その場の空気が重量を増す。その時、自信無さげにトータスが切り出した。
「あの……実はもうひとつあるんですけど、でもこれはその……ホンマにおまけなんですよ。シャレみたいなもんで曲でもなんでもないです」

　鼻歌？　替え歌？「ガッツだぜ～」トータスにとっては長い30秒だった。半ばやけくそで聴かせたことを後悔したが、瞬間耳を疑った。「これだよーー!!」面前の3人が突如気色ばんだ。そこから、丸1日スタジオにこもって一気に曲に仕上げていった。ＫＣの『ザッツ・ザ・ウェイ』が元ネタのため、ディスコ・ビートに挑戦するということはすぐに決まった。それは同時に、ポップ・ミュージックを取り巻く当時の状況が自然とそうさせたという見方も出来る。
「小室哲哉さんの全盛期でしたから。8ビートじゃ刺激が無い。だからロックバンドは中々辛い時代でしたね。で、そう言えばこれによく似た時代があったなって思い出したんですよ。70年代の終わり頃、『サタデー・ナイト・フィーバー』が大ヒットして猫も杓子もディスコだった。ストーンズもＫＩＳＳもディスコ・ビートをやった。それにすごく似てるなと。しかもリバイバルはより強力ですから。先にうまくやった者勝ちだと思いましたね」(伊藤)

　アイデアがまとまるとものすごい勢いでレコーディングが進んでいった。ケイスケは初めてのワウペダルで印象的なイントロを考え付いた。トータスは天才的な言葉をポンポン思いついた。ジョンＢはすぐにコツをつかんでリズムを自分のものにしていった。サンコンは最初4つ打ちに抵抗を示したものの、曲の全体像を理解し見事なビートを作り出した。気がつけば目の前に『ガッツだぜ!!』が出来ていた。そしてそのまま3rdアルバム『バンザイ』のレコーディングに突入していくこととなる。

<img alt="%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E5%B7%A6%E4%B8%8A.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E5%B7%A6%E4%B8%8A.jpg" width="250" height="168" />
<img alt="%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E5%B7%A6%E4%B8%8B.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E5%B7%A6%E4%B8%8B.jpg" width="250" height="168" />

　特筆すべきは、結果として大ヒットを生むこととなるこの曲が、知らず知らずのうちにバンドのアイデンティティをメンバーに確認させるに至ったということである。ＫＣのアルバムを手に取ったこともそうだし、何より元ネタをわかりやすくオリジナルに昇華出来たこと、これに尽きる。ロックにしろソウルにしろ、おおよそポピュラーミュージックの世界で100％オリジナルというものはあり得ない。意識しなくても結果誰かの何かの焼き直しになっているものだ。大切なのは、素材を素材として意識すること、そしてそこから自分達のフィルターを通して発露されるものがあること、それこそが記号化されないオリジナルなのである。例えばアンディ・ウォーホルが、誰もが知っているもの～キャンベルのスープ缶やマリリン・モンロー～をモチーフにポップ・アートというオリジナルなジャンルを築いたように。関西風に言うならば、“バッタもんの美学”とでも言おうか。バッタもんだからこその面白さ、そしてそこにオリジナルを超えるオリジナルの可能性が芽生える。ウルフルズのアイデンティティはまさにそこにある。前出の3人の審判のひとり、上阪が興味深い話をしてくれた。

「ウルフルズのターニング・ポイントとなる曲っていつでも誰かのエッセンスが元になっているものだったり、カバーだったりするんですよね。『ガッツだぜ!!』もそうだし、『明日があるさ』なんかわりやすい例ですね。そこに彼らの強さがあるし、トータス君の才能を感じる」

<img alt="%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E3%82%AC%E3%83%83%E3%83%84%E3%81%A0%E3%81%9C.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E3%82%AC%E3%83%83%E3%83%84%E3%81%A0%E3%81%9C.jpg" width="200" height="101" />
<div id="caption">'95年12月6日発表。静かな年内が明けて'96年、あっちゅー間に大ヒット</div>


12月6日、『ガッツだぜ!!』がリリースされた。突き抜けるディスコ・ビート、どこまでも開放的なアホさに象徴されるロック・スピリット、加えてＰＶでの時代の流れを逆手に取ったちょんまげ姿が話題となり、瞬く間にヒットしていくこととなる。ウルフルズのオリジナリティの完成、それはまさに彼らが辿ってきた“ザッツ・ザ・ウェイ”なのであった。

(2007年8月30日号掲載)]]>
      <![CDATA[いよいよヤッサ直前です。現在(8/16)、リハーサル中。メンバーのテンションも盛り上がってきています。では皆さん、会場でお会いしましょう！（マネージャー・新井雄一朗）

<img alt="%E7%AC%AC7%E5%9B%9E%E4%B8%A1%E6%96%B9ForYou%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88.jpeg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC7%E5%9B%9E%E4%B8%A1%E6%96%B9ForYou%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88.jpeg" width="70" height="71" />
CD 
ニューシングル、発売中！
『両方ForYou／泣けてくる』
7月25日（水）発売1200円　ワーナー・ミュージックジャパンWPCL-10502
2007年ABC夏の高校野球統一テーマ曲。新機軸の爽快なラテン・グルーヴ。]]>
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   <title>最後の審判</title>
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   <published>2007-08-22T12:42:05Z</published>
   <updated>2007-08-22T12:57:29Z</updated>
   
   <summary>　今でこそ、シングルと言えば正方形のマキシシングルが当たり前だ。しかし&apos;94年当...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.pia.jp/ulfuls/">
      <![CDATA[　今でこそ、シングルと言えば正方形のマキシシングルが当たり前だ。しかし'94年当時、シングルは8cm で、ジャケットは長方形が主流だった。
  2ndアルバム『すっとばす』リリースを機にウルフルズの評価は高まった。同業のミュージシャンからも各メディアからも、今までにない真っ当にアーティストとしての注目を集めるようになった。ディレクターの子安は、この良い流れをリスナー層に広げるべく新たな手を打った。それが、業界初のマキシシングルのリリースだった。きっかけは、営業的な発想によるものだった。というのも、リリース枚数の少なさから、ＣＤショップの棚にウルフルズのコーナーはまだなかった。メディアを通して少しでもひっかかったリスナーを逃さないためにも、ＣＤショップでのスペースの確保は命綱と言えた。そこで、曲数を通常の2曲から1曲増やし、サイズも大きくする。かつ、単発ではなく連続でリリースする。そうすれば否が応でもスペースは確保される。「マキシ大作戦」と題し、'95年3月17日『トコトンで行こう！』、5月24日『大阪ストラット(パートⅡ)』、7月19日『SUN SUN SUN '95』の3枚が連続投下された。これにより、バンドのキャラクターはさらに浸透することとなり、売上げ枚数自体はさほどでもなかったが、期待値は限りなく“ブレイク”へと高まっていった。

<img alt="%E7%AC%AC%EF%BC%98%E5%9B%9E%E4%B8%8A%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC%EF%BC%98%E5%9B%9E%E4%B8%8A%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg" width="250" height="167" />
<div id="caption">『大阪ストラット(パートⅡ)('95年5月24日)の時の写真</div>

　そんな中で、ウルフルケイスケはひとりもがいていた。伊藤銀次の言う音楽の本質に辿り着けなかったという後悔、しかしバンドの評価は高まっていくという個人的には逆説的な結果、そして何より他のメンバーとの距離……そんな何もかもがケイスケ自身を追い詰めていった。
「(レコーディングで)自分が出来てへんことがあったっていうのは引きずってて、気持ち的にメンバーと同じところまで行かれへんかった。それでどんどん自分の中に閉じこもっていった」(ケイスケ) 
　なんとか、自分の気持ちを奮い立たせるべく、高価なアンプを購入してみた。しかし、駄目だった。ケイスケは当時の胸の内を明かす。
「もうアカンかった。アカンって言う気持ちしかなかった」
　そして、森本の元にバンド脱退の意思を伝えに行った。
「森本さん、もうアキませんわ、僕」
「アカンか……ケイヤン」
　会話にならなかった。メンバーにも話した。同じようにその場に会話と呼ぶべきものは何もなかった。その時のことをトータスは振り返る。
「同情する気持ちと同時に、ホンマに何してんねん、みたいな歯痒い気持ちがあった」
　トータスがその時抱いた感情は、プレーヤーとしてのケイスケに、というよりも、かつてバンドを共に始めた仲間、“岩本さん”“ケイヤン”に対してのものだった。
「ケイヤンに辞めるって言われてから俺も大分考えた。そしたら“これ間違ってるんちゃうか”って言う気がしてん。ウルフルズって元々何がしたかったんやろう？って。確かに、銀次さんが言うようにヒット曲は作りたい。せやけど、そこにケイヤンがおらな意味が無い。リーダーやし、ウルフルズの根本を作った本人やないか。絶対に置いていかへんぞって思い立ったんやな」(トータス)

　トータスはケイスケの家に電話をかけた。
「何してんのー？」
「何もしてへん」
「今から温泉行こか？」
　ふたりで小田急線に乗った。車中、どこかぎこちない空気が流れる。ウルフルケイスケとトータス松本。この奇妙なふたりに気づく者は誰もいない。そしてこの旅が(と言っても極々小規模のものではあるが)何を意味するのか、ふたりにはまだ分からなかった。
　夜の９時頃、鶴巻温泉という駅で下車した。神奈川県秦野市にある東京から最も近い湯治場である。適当な宿を見つけた。食事は近くの中華料理屋で済ました。宿の温泉に入り、部屋に戻ると、6畳ほどの座敷に蒲団が２組敷かれており、蒲団と蒲団の間には止せばいいのに安っぽい行灯風の照明がサービスされていた。ふたりの脳裏に「連れ込み宿」という言葉が同時に浮かんだのは言うまでもない。とても寝る雰囲気ではなかったし、そもそも温泉宿に一宿を求めて来たのではない。宿への愚痴や他愛もない話は、自ずと核心へと向かっていった。以下は、トータスとケイスケ両名による取材を元に再現した会話である。
　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　● 

「松本君、俺な、やるだけのことはやったつもりやねん」
「やるだけのことって？」
「ああいうとこは直さなアカン、こういうとこも工夫せなアカンって、全部やったつもりや。せやけど、なんか違うねん。自分の思い描いてた音楽じゃないような気がすんねん」「…………」
「松本君は、ええなあ……。ちゃんと評価されて調子良くやれてて」
「俺もまだ何も掴めてないよ。そう見えるかもしれんけど、実は何も掴めてない。マキシシングル作ってる過程でも何回も辞めたろうって思ったし、もっと言えばいつ辞めるかわからへん。けど、ホンマに辞めたいってとこまでまだ来てへん。なあ、ケイヤン。ホンマにもう心の底から辞めたいっていうところまで行ってんのか？」
「…………」
「仮にどうしようもないところまで行ってるんやとしても、俺は認めへん。もう1回やろう」

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　● 

　1、2時間仮眠を取って、宿を後にした。ケイスケは「やる」とも「辞める」とも言わなかった。ただ、ふたりにとってはこれで十分だった。トータスは、ケイスケの味方に徹しようとした。事実、伊藤銀次に次のようなことを話したと言う。
「銀次さんがいなくなってもウルフルズはあるけど、ケイヤンがおらんようになったらウルフルズは無いんです。銀次さんとは一緒にやっていきたいけど、そのためにケイヤンを捨てるわけにはいかないんです」
　伊藤は、トータスに言われるまでも無くわかっていた。それは2ndアルバム制作の時にこのバンドの特異性を存分に垣間見ていたからだ。
「ある曲を録る前にメンバー同士で結構もめたことがあって。で、ケイヤンがなかなか上手く弾けなくて苦労してるところにサンコンがやって来て“ケイヤンがんばれよ～”って。そんなバンドいませんよ(笑)。普通ケンカ別れでしょ。彼らには確かな絆があるんですよ」(伊藤銀次) 

<img alt="%E7%AC%AC%EF%BC%98%E5%9B%9E%E4%B8%8B%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC%EF%BC%98%E5%9B%9E%E4%B8%8B%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg" width="250" height="337" />
<div id="caption">『SUN SUNSUN'95』の時。例えば『SUN SUN SUN』のPVなどでもわかるが、ケイスケは悩みながらもリーダーとしての存在感を十分発揮していた。4人のバランスは絶妙と言える</div>

　ケイスケは、温泉に行って以来、どこか吹っ切れたような気がした。トータスと向き合ってしゃべることによって、すっきりしたと言うほうが正確かもしれない。
「一緒にやろうって言われて、すごいうれしかった。そう思ってくれてたんだと。僕にしてみたらものすごい意外な話やったから」(ケイスケ) 
　ウルフルケイスケとトータス松本。友達でもない。まして家族でもない。比喩としての恋人とも違う。それは、ウルフルズのケイスケとトータスという関係でしかない。その関係を成り立たせているものは、楽器の上手い下手ではない。過ごした年数の長さでもない。見えないが確かにそこにあるものを同時に掴んでいるかどうかということだ。もっと言えば、その掴むべき何かは、彼ら以外には掴むことが決して出来ないものだ。ケイスケはそれを「気持ち」と言う。トータスはそれが「ウルフルズ」なのだと言う。

歴史を逆から眺めれば、この事件は、『ガッツだぜ!! 』が生まれる直前に位置する。ケイスケとトータスがふたりして行った温泉の旅は、彼らが本当の意味でウルフルズになるための、最後の審判だったのかもしれない。

(2007年8月9日・16日号掲載)]]>
      もうすぐ『ヤッサ&apos;07 』(8月25日)です。フェス出演の合間を縫って打ち合わせを重ねています。デビュー15周年のヤッサ、期待してください！　(マネージャー・新井雄一朗)

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   <title>天才の証明、宿命の系譜</title>
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   <published>2007-08-08T07:37:50Z</published>
   <updated>2007-08-08T09:04:40Z</updated>
   
   <summary> 　ウルフルズと伊藤銀次の格闘の日々が始まった。目標はただひとつ、「ヒット曲を作...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.pia.jp/ulfuls/">
      <![CDATA[ 　ウルフルズと伊藤銀次の格闘の日々が始まった。目標はただひとつ、「ヒット曲を作れ」という単純にして明快、そして限りなく手探りに近いものだった。作れと言われて作れるものでは当然ない。まして、これがヒット曲だという黄金律が存在するわけでもない。その答えは、あくまでウルフルズの中にしか存在し得ない。そのことがバンドにも伊藤にも、わかりすぎるくらいわかっていた。まず伊藤は、バンドはなんのためにやるべきなのかを説いた。
「君達が最初に音楽を聴いたきっかけは？　それは誰かのヒット曲だったはずだ。まずはヒットさせたいという気持ちを持つこと。その気持ちがなければ、プロとして自分達の好きな音楽は永遠に出来ない。逆にその気持ちがあれば、やるべきことに到達出来る」
   デビューして約２年。闇の中を疾走しヘタりかけていたウルフルズの目の前に一筋の光が射した。「自分の中にあるものをどう出したらええかわからへんかった。こうか？　どうや？　これか？　違うんか!?　ほなこれは？　どうやねん？　なんで反応ないねん！……焦ってもうてて。それが銀次さんと話したら一気にモヤが晴れた」（トータス）

　'94年の1月から3月にかけての3ヵ月間、伊藤とトータスの顔を付き合わせての曲作りが始まった。トータスは曲の原型が出来るとすぐに伊藤の自宅に持って行った。一番最初に形にしたのはアルバムのリード曲『すっとばす』だった。トータスが考えてきたフレーズを演奏する。それに対して伊藤が意見や要求を加えてジャッジする。さらにトータスが展開する。この繰り返しが延々行われた。そして、気が付くと今まで聴いたこともないような曲が出来上がっていた。伊藤は、少しづつ、確実にトータスの才能を引き出していった。トータスにとってもこの伊藤との曲作りは新しい発見に満ち溢れた楽しい日々だった。しかし、詞作の段階になるとその日々は地獄に変わった。基本的には曲作りの時と同じ。トータスの原型に伊藤のジャッジが加えられていく。違ったのは、伊藤を納得する言葉が中々見つけられないことだった。
「そんな普通の言葉でこの歌の気持ちは表現できない。いいものよりすごいもの、すごいものよりゴツいもの……もっともっと強い言葉があるはずだ」ヒット曲はそんなに生ぬる
いものじゃない。伊藤は妥協を許さなかった。書いても書いてもダメ出しをされた。

<img alt="%E7%AC%AC%EF%BC%97%E5%9B%9E%E8%A8%98%E4%BA%8B.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC%EF%BC%97%E5%9B%9E%E8%A8%98%E4%BA%8B.jpg" width="500" height="211" />
<div id="caption">‘94年9月6日号の「ぴあ関西版」に掲載された記事。「一度は死んでしまった～」
というくだりに当時のメディアの認識がわかる</div>


　ある日、渋谷のホテルの喫茶室で伊藤に歌詞のボツを喰らった帰り道、スクランブル交差点でトータスは全身の力が抜けて倒れてしまった。血尿が止まらなくなった。メロディを強力に武装する強い言葉、考えれば考えるほどわからなくなった。それでもヒット曲をものにするんだという意地だけで、すっかり枯れてしまった詞作の泉の底を掘り返して
いった。そして、こんな言葉が溢れてきた。

 <strong>「ゴータマシッダルーダダイバダッタ世の中こんなもんだGo Now!」</strong>
 『すっとばす』より

伊藤はこの言葉をトータスから初めて聞かされた時の衝撃を今でもはっきりと覚えていた。
「こいつは天才だと思いましたよ(笑)。どこからこんなフレーズが出てくるんだろうって。僕はいろんな人をプロデュースしてきましたけど、後にも先にも僕の投げかけたものにあんなに早くあんなにおもしろいことが返ってくるのはトータス松本しかいません」（伊藤）
　伊藤はトータスの才能を的確に分析して語ってくれた。
「彼の才能っていうのは、メロディと言葉のマッチングの才能なんだよね。くっついてるんですよ。言葉にメロディが、メロディに言葉が。小さい頃からそういう風に曲が自分の
中で形になってる人間なんですよ」
先ほどのフレーズ、意味は不明だが、何度か繰り返し読んでいると自然とメロディが発生してくるような錯覚にとらわれる。言葉に音が後から追いついてくる(あるいはその逆の)ような不思議さだ。ところが、トータスの中では言葉と音が自然に、同時に、純然たる確かさで存在しているのだろう。

　5月から、いよいよ2ndアルバム『すっとばす』のレコーディングが始まった。曲は出来た。あとは演奏だ。ウルフルズの持つ魅力である、ライブの熱狂と興奮、エンタテインメント性、それらをＣＤの中にどう刻み込むかが最大のテーマだった。それには、今までのような勢いではなく、確かな演奏力こそが要求される。そこで伊藤は、レコーディング
前に涙を呑んで言い渡した。
「黒田君はレコーディングでは使えないかもしれない。スタジオ・ミュージシャンでやることになるかもしれない」
　ところが、レコーディング前のリハーサルでのこと。伊藤は曲のサイズを変えたり、新しいアイデアを付け加えたり、曲をその場でいじっていく。そうすると、みんな間違えてしまう。だが、黒田だけは１回も間違えなかった。
　レコーディングが始まって、サンコンのドラムはすんなりと録れた。ベースは相変わらず時間がかかった。ただそれは、ダメだからではなく、どんどん良くなるからだった。
「今でも覚えてますよ。サンコンのドラムに釣られて黒田のベースも一緒になって暴れていってたから、言ったんですよ。『ベースは御者だ。ドラムの首に手綱をかけて引き戻すんだ』って。そしたら黒田が『わかったような気がします。もう1回やらせてください』って言ったんです。僕は黒田の後姿を見ながら音を聴いてました。そしたら、ドラムの後にピタッと吸い付くようにくっつきながらリズムを引っ張っていく、なんとも色っぽいベースになってて……。あの時は寒気がしましたね」（伊藤）

<img alt="%E7%AC%AC%EF%BC%97%E5%9B%9E%E3%81%99%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%99%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC%EF%BC%97%E5%9B%9E%E3%81%99%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%99%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88.jpg" width="250" height="219" />
<div id="caption">ジャケット写真は植木等の無責任男がモチーフ</div>

　予想を超える手ごたえを感じていた伊藤の元に、ある提案が子安から持ちかけられた。大瀧詠一の名曲『びんぼう』をカバーしないか、というものだった。師匠とも言うべき大瀧の曲を自分がアレンジすることへのプレッシャーを感じながらも、伊藤は自らの運命に感謝した。伊藤銀次とウルフルズ、出会うべくして出会った宿命的な音楽の系譜。思えば伊藤自身もバンドマンだった。大阪から有頂天で東京に出てきて、その自信はもろくも崩れ去り、大瀧の下で、一からミュージシャンとしての基礎を築いていった。なぞればなんとウルフルズの歩みとダブる部分の多いことか。ただひとつ、伊藤はバンドマンとして成功することはなかった。
「これは、君の敗者復活戦だ」
　伊藤は大瀧に言われたという。伊藤がウルフルズを成功させることの責任を自らの中に引き受けた瞬間だったのかもしれない。出来上がった曲は『びんぼう'94』としてアルバムに収録された。一度も大瀧から褒められたことがなかった伊藤は「俺のよりかっこいい」と初めてにして最高の賛辞をもらった。

　歌、ベース、ドラムのバランスが整っていく中で、ずっと苦しんでいたのは、ケイスケだった。
「音楽は作業でやるんじゃない。ギターは頭で弾くんじゃない。もっと体で感じなきゃ駄目だ」伊藤の言わんとしてることはわかる。だが、それをどうすればいいのかわからない。考えていった曲やフレーズもことごとく却下される。ケイスケは悩み続けた。結局、答えは出ないままレコーディングは終わってしまった。

　'94年8月31日、2ndアルバム『すっとばす』がリリースされた。メディアを中心にバンドへの評価が高まっていく中、ケイスケはどこか取り残されているような、名付けようのない感覚に囚われていった。

(2007年8月2日号掲載) ]]>
      <![CDATA[『両方For You』のPV撮影完了！ 原始人がテーマで、あの『ガッツだぜ!!』に続く名作が完成しました。絶対、一度は見てください！（マネージャー・新井雄一朗）

<img alt="%E7%AC%AC7%E5%9B%9E%E4%B8%A1%E6%96%B9ForYou%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88.jpeg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC7%E5%9B%9E%E4%B8%A1%E6%96%B9ForYou%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88.jpeg" width="70" height="71" />
CD
ニューシングル、発売中！
『両方For You／泣けてくる』7月25日(水)発売1200円　ワーナーミュージックジャパンWPCL-10502　2007年ABC夏の高校野球統一テーマ曲。新機軸の爽快なラテン・グルーヴ]]>
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   <title>ウルフルズに魅せられた人々</title>
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   <published>2007-07-25T11:54:58Z</published>
   <updated>2007-07-25T12:56:34Z</updated>
   
   <summary>  ウルフルズが契約した東芝ＥＭＩの中のプラネットアースは、洋楽中心のレーベルだ...</summary>
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      <![CDATA[  ウルフルズが契約した東芝ＥＭＩの中のプラネットアースは、洋楽中心のレーベルだった。バブルが崩壊したご時世ではあったが、レコード会社にその波が押し寄せてくるのは、まだまだ先のことだ。語弊があるかもしれないが、邦楽もありなんじゃない？というオプション的なアーティストがウルフルズに他ならなかった。当時、制作担当だった池田日都美(現ＥＭＩミュージック・ジャパン東京第２営業所所長)は振り返る。
「もしプラネットアースという、無国籍で一風変わったレーベルがなかったら、ウルフルズとの契約があったかどうか。オモシロイ！という勢いだけで石橋を叩かずに渡った(契約した)ような気がします(笑)」

　鳴り物入りのデビューとは程遠い地点からのスタート、当然宣伝費も限られたものだった。1stアルバム『爆発オンパレード』の売上げも3000枚程度で頭打ちという状況に陥った。さらに、リリース後間もなく、プラネットアースが解体されてしまった。ウルフルズはＥＭＩ本部(現Capitol Music Co)に所属することになり、同時に池田も同レーベルの宣伝担当に配置変えとなった。ＥＭＩ本部には当時、松任谷由実、氷室京介、吉川晃司などビッグ・アーティストが名を連ねていた。その中でなんの後ろ盾もないウルフルズが次作のレコーディングをするには、タイアップというわかりやすい形をとるのが手っ取り早かった。そこで森本が八方手を尽くし、大阪ローカル番組のタイアップをなんとか取り付けてきた。この曲が2ndシングル『マカマカBUNBUN』として、'93年の5月19日にリリースされることとなる。しかし、厳密な意味でディレクター不在という中でのレコーディングは、バンドの頼りない存在感が浮き彫りになった。

<img alt="%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88.jpg" width="250" height="136" />　
<div id="caption">人気が出てきたダウンタウンの深夜ローカル番組のエンディングで使われた</div>
　
　そうこうするうちに、所属事務所タイスケからの給料がなくなった。ケイスケはレンタルビデオ・ショップ、トータスはコラムやイラストなどの原稿執筆、ジョンＢは工事現場、サンコンはマクドナルドの深夜清掃で生活費を稼がなくてはならなかった。悪い流れが奔流となって押し寄せてきた。池田は、その激流をなんとか食い止める手立てを模索した。

　まず、正式なディレクターを付けるべく社内に働きかけた。ところが、手を挙げる者は誰もいなかった。暫定的にディレクターを付けて『世の中ワンダフル』(シングル、'93
年10月27日)をレコーディングしたはいいものの、それはあくまで一時的なものに過ぎず、誰にとってもフラストレーションが募る結果としかならなかった。池田は意を決してある男に直談判を試みた。子安次郎である。BOOWYを手掛けたことで、ヒットメーカーとしてその手腕が高く評価されていたディレクターだ。子安がウルフルズのどこに可能性を感じて引き受けることになったのか？　子安に取材を申し込んだが、彼は現在Capitol Music Coのプレジデントである。その立場上、他社(ワーナーミュージック・ジャパン)に移籍したばかりのアーティストに関して、今は語ることが出来ないという理由で話を訊くことは出来なかった。子安の立場も推して図るべきであるし、「今は語ることが出来ない」とした彼に、簡単に整理出来ないウルフルズへの深い愛情が今も変わらずあることが感じられた。

　当時の子安の決断を促した理由として推測できるのは、ウルフルズの誰もが持て余してしまうほどの強烈な個性を目の当たりにし、ディレクターとしてのやりがいを刺激されたからではないだろうか。池田も同様にウルフルズのライブを最初に観た感想をこのように表現した。
「派手な格好をしていて、パッと見は色物でした。でもそこにちゃんと思想があるような気がしました」

　'93年の秋頃、子安が正式にウルフルズのディレクターに就任し、彼がまず着手したのは、きちんとした商品(音源)を作ることだった。そのためにはプロデューサーが必要となる。そこで子安は伊藤銀次にオファーを出した。

<img alt="%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB.jpg" width="250" height="219" />
<div id="caption">マネージャーが使用していたスケジュール表。'94年1月7日の欄には、
「伊藤銀次氏と会う PM4:00～」との記載が。この日からウルフルズと
伊藤との格闘の日々が始まることとなる</div>

　伊藤は、大瀧詠一のプロデュースでプロとしてのバンド活動を開始し、'76年には、大瀧、山下達郎と共に『ナイアガラ・トライアングル』に参加した名うてのミュージシャンだった。'80年以降は、デビュー当時の佐野元春のプロデュースなどプロデューサーとしてその地位を確立していた。ただ、子安がウルフルズのオファーを出した当時、伊藤の元に来る仕事は減っていた。というのも、これまで散々プロデューサーという立場で多くの作品を制作してきたが、あくまでそれはアレンジなど一部分だけの関わりにすぎなかった。伊藤が理想とするのは、曲作りの最初の段階から一緒に作り上げていくような本当の意味でのトータル・プロデュースだった。しかしそれは、レコードメーカーやプロダクションからすれば、危険を伴うものだった。バンドやアーティストの音、キャラクターを変えられてしまう可能性があるし、第一、曲作りからとなれば時間がかかる。ということはつまり費用がかかるのだ。

　では、子安にとってもそれは危険を伴う賭けだったのか？　実はその決断にこそ、数々のヒットをものにしてきた子安のディレクターとしての鋭い勘と深い洞察力を見ることが出来る。まず、ウルフルズの荒削りで剥き出しの個性を商品にまで磨き上げるためには、曲と詞それらの根本を徹底的に見つめ直させる必要があった。単なるアレンジャー的なプロデューサーに務まる仕事ではない。過去の作品がそれを証明していた。そしてその仕事をウルフルズと共にやっていくにあたって、大阪出身、元バンドマンという出自、大瀧詠一の元で鍛え上げられた明快な音楽理論、伊藤の持つこれらの要素は完璧にバンドにマッチすると思われた。子安が伊藤銀次をプロデューサーに起用したのは、決して伊藤のネームバリューに頼ったものではないということがわかる。真剣にウルフルズをなんとかしたい、その思いが伝わってくる人選だ。
　
　それにしても、池田といい子安といい、ウルフルズに魅せられていった者達が注ぐ、度を越した、と言わざるを得ない愛情に驚くばかりだ。そして、ウルフルズのライブを観て「とにかく下手だなと思った」という伊藤も、間もなくその引力に引き寄せられることになる。
　
　'94年1月初頭、東芝ＥＭＩの会議室で、子安、伊藤、トータス、ケイスケが顔を合わせた。トータスはこの時点で伊藤がプロデュースすることに半信半疑でいた。そういう気持ちが手伝ってか、トータスは伊藤との初顔合わせの場に遅刻して行った。トータスが伊藤を伺うと、ブスッとしてるように見えた。一通りの挨拶が終わると伊藤が言った。
「未発表の音源30曲ほどを聴かせてもらった。使えるのは2曲だね」

  トータスもケイスケも脳天を叩き割られたような衝撃を受けた。今にして思えば、「伊藤さんなりのハッパやったと思う」とトータスは述懐するが、伊藤に確認したところ、正真正銘すぐ使える曲は2曲しかなかったのだと言う。ただし、それは次のような意味において。
「だって、ワンフレーズだけの曲とか、そういう断片ばっかりだったんだから(笑)。すぐ使えるのは2曲。実際的な意味において(笑)。でも、面白かったね。ケイヤンの曲は割りとしっかりと作ってあった。ちゃんとスケッチが出来てる。だけどトータスのは本当に断片だけ。ただ、インパクトはトータスの曲の方が強かったんだよね」(伊藤)
  トータスは、自分達の曲が半ば否定されたに近い伊藤の発言に、不思議と腹は立たなかった。それどころか、忘れかけていた感情がむくむくと湧いてくるのを感じた。メジャーデビュー以来失ってしまった“やる気”だ。

(2007年7月19日号掲載) 
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      <![CDATA[<img alt="%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E4%B8%A1%E6%96%B9For%20You%E8%A1%A81.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E4%B8%A1%E6%96%B9For%20You%E8%A1%A81.jpg" width="70" height="71" />
ニューシングル、リリース決定！
『両方For You／泣けてくる』7月25日(水)発売1200円　ワーナーミュージック・ジャパンWPCL-105022007年ABC夏の高校野球統一テーマ曲。真骨頂の爽快なラテン・グルーヴ。]]>
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   <title>ウルフルズの音楽ってなんや？ </title>
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   <published>2007-07-11T14:28:18Z</published>
   <updated>2007-07-11T14:36:44Z</updated>
   
   <summary> メジャーデビュー。その言葉の響きが喚起する“輝きに満ちた未来”に、トータスもケ...</summary>
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      <![CDATA[ メジャーデビュー。その言葉の響きが喚起する“輝きに満ちた未来”に、トータスもケイスケもサンコンも森本も、酔った。ただひとり黒田だけがシラフだった。ウルフルズが認められたという誇らしい気持ちはあれど、自分がプロのミュージシャンとしてやっていけるのか、黒田にはまったく自信がなかった。ともすれば、ベースを弾くという行為そのものにトラウマがあった。「メジャーデビューかぁ… …オレどないなんねやろ」一際大きな花火を見ながらボーッとしていると、トータスの怒声が炸裂した。
「オマエはこんな時に何暗い顔しとんじゃ！ うれしないんかっ！」

　元々が初心者だったため、バンドの成長にプレイヤーとしての技量が追いつかず、そのために幾度となく メンバーから小言を言われ続けてきた。特にトータスからは、散々怒られた。それでも、バンドを辞めなかったのは、そこにトータスやケイスケがいるからだった。彼らと一緒にいるのがとにかく楽しくてしようがなかった。だから、彼らが東京に出てプロとしてやると決めた以上、黒田はそれに従うよりほかなかった。なぜなら、彼らと離れてしまった自分は、つまりウルフルズのメンバーでなくなった自分は、ただの黒田でしかないのだから。それは、ベースがうまく弾けないことよりもツライことだった。

　いよいよ'91年の11 月にメンバー4人の東京への引越しが決まった。しかし黒田には荷物をまとめる以外に、大事な仕事がひとつあった。親にバンドでデビューするということを言えないでいたのだ。これまで、バンド活動をやっていることも親には隠していた。そこには、自分がバンドなんて、という気恥ずかしさと自分にだって何か出来る、という親への捻じ曲がったプライドがあった。そのふたつが渾然一体となって、バンド活動は黒田にとって親に内緒の“禁じられた遊び”となっていた。しかし、事ここに至っては腹をくくるしかない。素直に打ち明けると、案の定、猛烈な反対にあった。黒田は思案した挙句、森本に相談し、事務所の社長として森本が黒田の両親を説得するということになった。いざ、会見の場。黒田の母親は森本に言った。
「うちの子はバンドなんて出来る才能ないから、東芝からデビューするんやったら、東芝の社員にしてください」

　結局、黒田は両親の了承を得ることが出来なかった。なかば家出のような格好で東京へ向かった。東上する車中、高速道路の変化に乏しい景色を見送りながら、まぁ、なんとかなるやろ、と思った次の瞬間、一体自分はこの先どうなるのだろう？　言いようのない不安に襲われた。そして思い出すのは、先月に体験した地獄の合宿レコーディングだった。

　東京へ移る1ヵ月前、ウルフルズは1stシングル『やぶれかぶれ』のレコーディングのために、山中湖のスタジオで一週間の合宿をした。初めての本格的なレコーディングにメンバー全員緊張を隠せなかった。「自分達の曲を知らんおっさんらに勝手に変えられたらどうしようとか（笑）、今考えたらかなりしょーもないこと気にしてた。もう、怖くてしようがなかった」（トータス松本） 
　1曲を録るのに何十テイクもかかった。その中でも黒田は悲惨だった。プロデューサー的立場のサポートミュージシャンの標的となった。レコーディング途中でひどい胃痛に襲われ、医者に罹ったりもした。泣きながら練習した。最後のほうには、上半身裸になり、そこに“男一匹”の落書きをされ、レコーディングを終えた。それもこれも、ベーシストとしての自分の力量が足りないからだ、そうわかってはいながらもベースという楽器との向き合い方がこの時点でも黒田にはわからなかった。

　年が明けて、'92年1月5 日。市ヶ谷の一口坂スタジオで1stアルバム『爆発オンパレード』のレコーディングが始まった。そこでもやはりベースのレコーディングは苦難の連続だった。「ひとつの曲がなんとかかんとか終わったら、『お前はメトロノームで練習しとけ』って黒田が言われてる。帰り支度を整えて通路をふと見たら黒田がメトロノームをカチカチやりながら練習してた。もうなんか、見てられへんというか……。あいつもビビッてもうて、メンバーに対してただただ申し訳ないっていう感じやったなぁ」（トータス松本） 

　そんな中、最後の曲のレコーディングで黒田は、何かをつかんだ。「ベースってこういうふうに弾けばええんや」あまりにも遅すぎるベーシスト、ジョン.B. チョッパーの誕生である。
「例えば、メトロノームで練習せえって言われても、それをなんでやるのかがわからんかってん。このフレーズ弾けって言われたら弾けるけど、じゃあ、なんでこのメロディにこのフレーズなのか、というのが理解できへんかった。元々こうなりたいとかベースやりたいっていうところから始まってないから、何か本質みたいなもんをつかんで、向かっていくもんがないと前に進まれへんかってん」（ジョンB） 

<img alt="%E7%AC%AC5%E5%9B%9E%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC5%E5%9B%9E%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0.jpg" width="226" height="175" />
<div id="caption">現在は廃盤となっている幻の1st アルバム。ファンの間では「赤盤」と呼ばれている。
ジョンBはこの時点では、「ブラック田ヨンピル」とクレジットされている</div>



　ジョンBのつかんだものが何だったのか、それはもちろんものすごく感覚的で、しかし確かなものだ。人はそれをグルーヴと呼び、ソウルと呼び、さらにオリジナリティと呼ぶ。この時点ではまだかけらしかつかんでいなかったが、ただジョンBがベーシストとして向かうべき方向にはぼんやりとした灯りがともされた。だが、記念すべきウルフルズの1st アルバムには、残念ながらジョンBのグルーヴは刻み込まれていない。そういった意味でこのアルバムからは、まだウルフルズの音は聴こえてこない。あるのは、勢いとガムシャラさ。その裏返しである、未来への不安。きちんとしたレコーディングをすることによって突きつけられた自分達の甘さ、もろさ……。録音作業がすべて終了した時点で、ト
ータスは次のアルバムのことを考え始めていた。「ウルフルズの音楽ってなんや？」永遠の命題。ーー15年後の、つまり現在のトータスはこの命題に次のように答えた。
「ウルフルズの音楽っていうのは、メロディだけでも成立せぇへんし、リズムだけでも成立せぇへん。そのどっちでもないもの。スーパーマーケットで流れてるイージーリスニングにはなれへんし、実は聴きにくいんやけど、体にスッと入ってくるような音楽。だから例えば、ケイヤンはメロディだけを捉えようとするし、サンコンはリズムで持っていこうとする。でも黒田はベースという役割やからかもしれんねんけど、そのどっちでもない感じ、ウルフルズの音楽の本質をわかってる気がする」

　奇しくも、1stアルバムのレコーディングで居残り練習をさせられていたジョンＢこそが、トータスと並んで今はもっともウルフルズの音楽を理解しているという。

「自分では音の方向は見えてる。そしてそこに何があるかって言ったらウルフルズの音があるねん。湿ったり外に向かって開かれてなかったり、そんなんはウルフルズの音楽ちゃう。人が聴いて、観て、それでエネルギーが重なっていく音楽じゃないと意味が無い」（ジョンB） 

　'92年5月13日、1stシングル『やぶれかぶれ』、6月17日、1stアルバム『爆発オンパレード』がリリースされた。しかし、夢にまで見たメジャーデビューの輝きは、「ウルフ
ルズの音楽ってなんや？」答えの出ない闇にスッポリと飲み込まれていった……。

(2007年7月5日号掲載) ]]>
      7月からは、夏フェスへの出演が始まります。2、3、4日の3日間ライブ・リハをやって、いざシーズン開幕です。新曲を披露できるかもしれませんよ。（マネージャー・新井雄一朗）

CD 
ニューシングル、リリース決定！
『両方FOR YOU／ 泣けてくる』7月25日（水） 発売1200円　
ワーナーミュージックジャパンWPCL-10502 
アリナミンのCM で大量オンエア中のあの曲が、いよいよリリースです。
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   <title>ウィー・アー・タイスケ</title>
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   <published>2007-06-27T01:36:14Z</published>
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      <![CDATA[　京都ミューズホールの楽屋に、森本は明らかに場違いな存在だった。元自衛官、現空間プロデューサーの肩書きを持つ森本からは、ロックやバンドといった匂いは一切感じられなかった。ただ、得体の知れないエネルギーがギラギラ放出されていた。
「大阪のクラブ・パラノイアの森本いうもんです。なんやうちのスタッフのミスでダブル・ブッキングしてもうて、ほんまえらいすんません」
  ウルフルズの4 人は、この珍客に対してもてなす術も追い返す術もなく、受身にまわるしかなかった。
「ほんまうちのスタッフがえらい迷惑かけてもうて、勘弁してほしいんやー。パラノイアを悪う思わんとってほしいんやー。これな、出演料5万。受け取ってぇな」
 森本はトータスの手に５万円を握らせ突風のように去っていった。数日後、クラブ・パラノイアの前ではスタッフがバラを持って立っていた。ダブル・ブッキングが判明したのが公演日の直前だったため、ウルフルズ目当ての客には情報が行き渡っていなかった。携帯電話もパソコンもまだない時代である。森本が考えた方法は、当日来てしまった客全員に「申し訳ありません」と謝りながらバラを渡すという、よくわからないが誠意だけは確かに伝わるものだった。そして、森本は、ライブでもＣＤでもなく意外な形でウルフルズの人気を目の当たりにするのだった。
「正直ね、そないウルフルズのファンおらんやろうくらいに思てたんや。そしたら、くるわくるわ。ビックリしてもうた。たかがアマチュアのバンドやのにこない人気あんのか、すごいなーって」(森本泰輔） 

　　森本はウルフルズをレギュラーで出演させることに決めた。ウルフルズにとっても怪我の功名とでも言うのか、クラブ・パラノイアへのレギュラー出演は願ってもないことだった。当時の流行の最先端を行く1000 人収容のクラブ、さらにスケジュールには、東京で話題のバンドが続々とラインナップされていた。東京進出への足掛かりを模索していた彼らにとって、パラノイアは十分魅力的だった。ウルフルズと森本。彼らを結ぶものが音楽ではなく、お互いの利害だったというところがいかにも大阪らしく、それこそが話をチープな美談ではなく劇的な実話へ誘うことになる。
「ええか～、松本君。今日はお客さんもぎょうさん入ってるしな、いろんな有名な人が出てるしな、ものすごいチャンスやで～。行ったるんやで～、やるんやで～」
「今日はな、ごっついイベントや。やったるんやで～」
「東京から業界の人がゴロゴロ見に来とるわ～。今日は勝負やで～」
　いつしか森本は、マネージャーのようなセコンドのような、ウルフルズに近しい存在になっていた。しかし、ケイスケやトータスはそんな森本をどこか胡散臭げに見ていた。
「毎日留守電に森本さんのメッセージが1 件入ってるのよ。『ピ～。松本君、元気でっか～。パラノイア森本です～。また電話します～。ピ～』今さっき会うてたやん！ みたいな。行動の意味がわからへん。そうやと思たら、『君らどこのレコード会社からデビューしたいんや。好きなとこ言うてみ。ワシがデビューさせたるから』とか言うわけ。そんなん信じられる？」(トータス松本) 

　クラブ・パラノイアにレギュラー出演しだして間もなく、東京のライブハウスからも声が掛かるようになり、関東でツアーをするようにもなった。'90年の終わり頃には新宿LOFTでワンマン・ライブをやる、というような話しまで現実味を帯び始めていた。レコード会社の人間が頻繁に現れては名刺を置いていくようになった。まわりが急に騒がしくなってきた。森本の鼻息も荒くなった。森本は数少ない音楽業界のコネクションを辿って、あるプロダクションの社長にウルフルズのことをあれこれ相談していた。ウルフルズは大阪の森本の会社に所属し、東京にあるそのプロダクションとの業務提携でメジャー・デビューに向けた体制を作る、森本の構想は膨らんでいった。

　ところがそんなある日、新宿LOFTでのライブ直前に、ウルフルズの4人は珍しく険しい顔をした森本に「大事な話があるから、ライブ終わったらここへ来てくれ」と告げられた。指定のうらぶれた居酒屋は、4人にとってかなり居心地の悪い場所となった。森本が件(くだん)のプロダクションの男に、いきなり喰ってかかったのだ。「もうあれでんな！ 一緒には出来ませんな!! 」森本は一方的に関西弁でまくし立てた。当然男は腹を立て、思いつくだけの罵詈雑言を森本に浴びせて席を立って帰ってしまった。不必要なほどに明るい蛍光灯が、その場をより寒々しい色合いに照らす。沈黙を破ってトータスが森本を質した。「なんなんですか？ 」
　この日、プロダクションの男に森本は、「ウルフルズは今後うちでやっていくから」と当たり前のように言い渡された。音楽業界で人脈もなく、音楽ビジネスの知識もない森本には、ウルフルズとの信頼関係しかないと、ここへきて改めて思った。メンバーが欲しそうにしている楽器やアンプがあれば、躊躇なく買い与えた。デモテープが少しでも良い音で録音できるようにプロユースのスタジオを借りた。関東へのツアーではいいライブが出来るようにホテルに宿泊させた。すべて森本が自分で賄ってきた。利害関係にコテコテの人情がドップリと注入され、森本にとってウルフルズはバンドを超えた存在となっていた。だから森本は、当事者全員がいる場で、メンバーがどちらにつくのか、ハッキリさせたかったのだ。
「君らがな、ほんまにあの人とやっていきたいと思うんやったらあの人とやったらええ。ワシなんも言わん。せやけど、ワシとやりたいって思ってくれるんやったら連絡くれー！」
　トータスは、最悪だと思った。森本に対してである。正直すぎる森本の言い方ややり方にもうついていくのは難しいと思った。ケイスケもトータスと同じ気持ちだった。森本と決別する、そこまで思いつめてはいなかったが、ふたりは森本の事務所に出向いた。西日の差し込むオフィスに森本はポツンとひとりきりだった。
「森本さん、この間の話なんですけど……」トータスが言いかけた瞬間、森本が泣き出した。
「すまん。ホンマはあんな風にしたくなかったけど、ワシどうしてもウルフルズやりたい。せやけどワシ、音楽業界のプロやないからどないしたらええんかわからへん。どうしたら君らをスターに出来るかわからへん。せやけどな、ワシ、ウルフルズほんまに好きやねん」
　トータスもケイスケも泣いた。
「森本さん、一緒にやりましょう。会社作って一緒に東京行きましょう」
「おーきに、おーきに……」
　森本の本気に拍車がかかった。
　
<img alt="%E7%AC%AC4%E5%9B%9E%E7%9B%AE%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%82%AF%E3%83%AD.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC4%E5%9B%9E%E7%9B%AE%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%82%AF%E3%83%AD.jpg" width="250" height="183" />
<div id="caption">デビュー当時のウルフルズ。
黒田の表情だけ微妙なのはなぜ？</div>
　
　'91年5月、森本の勧めでトータス、ケイスケ、黒田の３人はカンテでのアルバイトを辞めた。ウルフルズをメジャー・デビューさせる、スターにする、その思いだけでさっぱりわからない東京の街と音楽業界の中を駆けずり回った。「原盤権ってなんでっか？ 」「契約ってどないしたらええんでっか？」恥もへったくれもなく、わからないことは訊きまくった。「ウルフルズ最高でっせー」「ナニワのビートルズでっせー」吹聴しまくった。そして、東芝ＥＭＩが興味を示し出した。森本は覚えたての音楽ビジネス知識とハッタリを総動員してたたみかけ、ほぼ契約がまとまった。
　7月のある夕暮れ、メンバーは淀川の土手で森本が東京から帰るのを待っていた。しばらくすると手を振りながら森本が土手を下りて来た。
「毎度毎度ー。ここにおったかー。えーー、では、報告いたします。先ほど東芝ＥＭＩにて無事契約して参りましたーっ！」
　ビールで乾杯した。そのバックでは、淀川花火大会の大玉がドドーンと大きな音を立てて花開いた。ウルフルズの未来を祝福するかのように花火が次々と上がった。しかし、その喜びの輪の中で、ひとり浮かない顔の男がいた。ジョン・B・チョッパーこと黒田である。

(2007年6月21日号掲載)
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   <title>役者は揃った！</title>
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   <published>2007-06-22T04:35:55Z</published>
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      <![CDATA[　ウルフルズには時間がなかった。厚生年金会館中ホールでのイベント出演まであと2 週間。そんなタイミングでバンドの要、ドラマーが抜けてしまったのだから。後任として思い浮かぶ顔といったら、佐子博幸(サンコンJr. )しかいなかった。トータス松本は、バンドリーダーであるウルフルケイスケに佐子と一度、ふたりでセッションをしてみると告げ、すぐさま佐子の家に電話をかけた。
「松本やけど、覚えてる？　お前、明日あいてへん？」
　さっぱり要領を得ないながらも、佐子は「あいてます」とトータスに伝えた。事実、佐子には明日も明後日もその次の日も予定というものは一切なかった。高校を卒業して就職も何もしていなかった佐子にとって、時間だけが有り余っていた。
　翌日、ふたりは中津駅で待ち合わせをして、スタジオへ向かった。セッティングが終わり、唐突にトータスがギターで8ビートを弾き出す。促されて佐子もリズムを刻み始める。次はシャッフル、その次は16ビート、やれどもやれどもトータスの意図が佐子にはわからなかった。1時間が少し過ぎたあたりで、トータスがセッションを途中で止めて佐子に向かって言った。
「決めた！ お前ウルフルズ入れ！」
　佐子が驚いたのは言うまでもない。
「えーーー!? 今までのそういうことやったん!? ビックリしてたら松本君がさらにこう言うわけ。『入るか入らへんか今決めてもらわな困んねん。俺ら2週間後にでっかいライブ
あるから』って」(サンコン) 
　佐子に選択の余地はなかった。一体自分の何が気に入られたのかさっぱりわからなかったが、ひとつ確実なのは、明日以降自分のやるべきことが出来たということだ。プー太郎はプー太郎でも自分はバンドマンなのだ。そう思うと、無性に誇らしい気分になった。そしてつい、誰に言うともなくこんなことをつぶやいた。
「よっしゃ！ ウルフルズやったるわ！」
　一方、トータスには確信があった。
「下手やってん。なんかパタパタしてて。でも、何かを感じたんやね。あ、コイツやって。それと、コイツやったら黒田と合うはずやって思った」(トータス松本、以下トータス) 
　トータスはすぐにケイスケに報告した。「うまくないけど勢いがあって良かったですよ」そしてこう付け加えた。「せやから僕、アイツ入れましたけどええすか？」完全な事後報告だったが、ケイスケは「ええよ。ええよ」とトータスに返した。バンドを結成して2年足らず。大事な決定のほとんどをケイスケ主導で行ってきたが、だんだんトータスの役割が大きくなってきていた。あるいはそれは、ケイスケのトータスへの信
頼の表れでもあった。実際、トータスと佐子とのセッション同日の夜に、居酒屋でケイスケは佐子に会い、こう伝えている。「松本君がええ言うたらええんや」だから一度も音を聴いたことのない佐子の加入を許すのだと。こうしたバンドのバランスの変化は、ウルフルズをプロへ近づけるために必要なことだった。
「僕は最初に松本君や黒田とセッションした日から、これや！ 絶対いける！っていう気持ちやった。初ライブをした後により一層その思いは強くなった。せやけど、松本君は心のどっかで『どやろか？』みたいな感じやったと思う。だから松本君が意見を言うてくれることが、うれしかったし、心強かってん」(ウルフルケイス、以下ケイスケ) 

<img alt="%E7%AC%AC3%E5%9B%9EA.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC3%E5%9B%9EA.jpg" width="250" height="150" />

　助走期間を終え、いよいよ本格的に活動をしていく、そんな中での佐子の加入だった。さらには絶好のアピールとなる大きなイベントへの出演が間近に控えていた。当然、佐子にかかるプレッシャーは相当なものだった。
「2週間で曲覚えなアカンから、もう必死。マメがえらい出来て、箸持たれへんようになった」(サンコン)
　'89年12月末。ウルフルズは厚生年金会館中ホールのステージに立った。フライングキッズや宮尾すすむと日本の社長、人間椅子、すかんちなど、華々しいメジャーへの道が約束されたバンドたちの中で、ウルフルズは合計4曲、20分間の短いライブをかなり気負い気味に終えた。完全な空回りだった。楽屋でケイスケやトータスが落ち込む中、初ライブを終えたばかりの佐子が、また誰に言うともなくつぶやいた。
「ま、最初はこんなもんやろ」
　その場にいた全員がズッこけることはなかったが、この吉本新喜劇的独り言とともに、ウルフルズのサンコンJr.が誕生した。
　年が明けて'90年。ケイスケとトータスは東京進出を現実的に考え始めていた。目標でありライバルとしたのは、ボ・ガンボスだった。この1年が終わる頃、少なくとも現時点でのボ・ガンボスくらいまでのポジションに到達していたいとふたりで確認しあった。元ローザ・ルクセンブルクのどんとを中心に'87 年に結成されたボ・ガンボスは、'89 年に鳴り物入りでメジャー・デビューを果たしていた。ブルースなどのルーツミュージックを下敷きにしたポップな音楽性は、トータスが目指すそれでもあった。また結成や活動時期もほぼ同じだった。'90年初頭にケイスケとトータスが目指した、現時点でのなど、

ボ・ガンボスとはつまり、メジャーデビューを意味していた。お互いにあえて「メジャーデビュー」という言葉を口にはしなかったが、見据えている地点は同じだった。
　同年6月、渋谷のエッグマンで東京での初ライブが実現する。ウルフルズは、既に大阪では知名度のあるバンドになっていた。ホームグラウンドである十三Fandangoでは一番動員力のあるバンドだった。ミナミを歩いていても「トータスさんでしょ？」と声を掛けられることもあった。
「東京でまたイチからやらなアカンのかって思ったけど、全然しんどいとは思わへんかった。大阪と同じようにやったらすぐ人気出るやろと思った」(トータス) 
　初の東京でのライブは惨憺たるものだった。満員近く入っていた客は、ウルフルズの出番になると6人になっていた。しかし、めげている場合ではなかった。ケイスケのツテでデモテープを東京のライブハウスに送ったり、大阪に来るツアーバンドのスタッフと話をしたり、なんとか東京への足掛かりを模索していた。
　
<img alt="%E7%AC%AC3%E5%9B%9EB.jpg" src="http://blog.pia.jp/ulfuls/%E7%AC%AC3%E5%9B%9EB.jpg" width="250" height="169" />
<div id="caption">'90～ '91年頃のウルフルズ。「当時はとにかく衣装は
派手やったし、顔に白塗りもしてたし、まわりのバンド
からみたらゲテものみたいな感じやったんちゃうかな」
( トータス松本)</div>　
　
　その夏、ある事件が起きる。この年に大阪の土佐堀に出来たばかりのクラブ・パラノイアで、毎週木曜に企画されていた「アマチュア・ナイト」というイベントに出演することになった。大阪では無敵のウルフルズ。集客も人気も上々で、パラノイアのスタッフも気に入り、早速2回目の出演が決定した。ところが、蓋を開けてみれば、パラノイア側のミスによるダブル・ブッキングが判明した。電話で事情説明を求めるトータスにスタッフの対応はかなり雑なものだった。トータスは激怒して電話を切った。「オレらは遊びでやってるんじゃない。真剣にバンドをやってるんや」トータスの中で何度も怒りがぶり返した。いつしかウルフルズはトータスの中でかけがえのないものになっていた。

　その一件があってすぐ、京都ミューズホールでのライブ当日。ひとりの男がウルフルズの楽屋を訪ねてきた。短く刈った頭に、メガネ、派手なアロハシャツにジーパン… …まるで芸人のような、あるいはヤクザのように見えなくもないその男の口から意外な言葉が発せられた。
「勘弁してほしいんやー」
　森本泰輔。ウルフルズと運命を共にする、後の所属事務所「タイスケ」の社長である。

（2007年6月7日号掲載）
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      「ウルフルズは、5月25日現在、藤沢で合宿レコーディング中です。
でも、ジョンBさんだけ藤沢のホテルから自転車通勤しています。」
（ワーナーミュージックジャパン・梶野勇人）
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